即位年をめぐる議論とは? わかりやすく解説

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即位年をめぐる議論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 01:17 UTC 版)

欽明天皇」の記事における「即位年をめぐる議論」の解説

詳細は「継体・欽明朝の内乱」を参照 前述通り『日本書紀』によれば欽明天皇庶兄宣化天皇崩御した後即位したとされているが、同書紀年には幾つかの矛盾見られ、それを解決するための議論いくつか提示されてきた。 まず、平子鐸嶺は父の継体天皇没年『古事記』527年丁未4月9日)とし、その後2年ずつ安閑宣化在位して『日本書紀』での継体没年継体天皇廿五年春二月丁未)にあたる531年欽明天皇即位した主張した。これにたいして喜田貞吉欽明即位年は531年という点では同意するが、彼の即位認めなかった勢力3年後534年安閑擁立、彼は1年崩御したが、続いて宣化擁立する欽明朝と安閑宣化朝は一時並立し、宣化崩御により解消されたと主張した林屋辰三郎大筋では喜田説に同意するが、継体暗殺されたと主張したまた、水野祐白崎昭一郎継体没年について平子説に同意するが、水野その後安閑8年在位し535年欽明即位宣化架空の人物見なし白崎安閑在位4年その後はさらに4年宣化欽明両朝並立したとみなした。 これに対して黒岩重吾『日本書紀』継体天皇廿五年での『百済本記引用百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇太子皇子 倶崩 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」天皇および太子皇子同時に死んだという記述等を根拠それぞれ実際に即位していない安閑宣化暗殺軟禁され大伴金村任那4県を賄賂引き換え割譲したことではなく、彼ら庶兄推したために後継者争い敗れて失脚した主張した。 これらのうち、並立説については史料根拠乏しい事等を理由反対する意見もあるが、もし書紀水野以外のいずれか正しければ欽明天皇現在の皇室から少なくとも遡れる継体以降歴代天皇では昭和明治次いで3番目に長く在位したことになる。しかし、いずれも推測の域を出ないのが現状である。 なお、宣化の娘で欽明正妃である石姫皇女は、欽明即位以前から正妃となっているため、恐らく継体期から安閑宣化欽明継承されることは確定しており、継体期から欽明期の混乱は、「安閑宣化欽明ではなく物部麁鹿火の妻の発言伺えるように、「大伴氏対物部氏」が元にあったと考えられまた、中立かつ葛城氏地位を継ぐ蘇我氏はその争い最中台頭できたとする説も存在する

※この「即位年をめぐる議論」の解説は、「欽明天皇」の解説の一部です。
「即位年をめぐる議論」を含む「欽明天皇」の記事については、「欽明天皇」の概要を参照ください。

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