即位以前の動向
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ガザンは、アルグンが即位する以前の1284年には既にチャガタイ家の王族ウマル・オグル(フレグの西征に参加したテグデルの長男)とともに多数のアミールらと、アルグンと係争を続けていたテグデル・アフマド・ハンへ和平に臨んでおり、早くからホラーサーン方面の諸軍を統率する立場にあったことがわかる。父アルグンは即位以前にホラーサーン方面を統括していたが、テグデル・ハンの討滅によって自ら即位することになったアルグンの愛息子として、ガザンは父に成り変わり東方領域の統括を任される事となった。 アルグンは1284年の即位のおりにイルハン朝の諸地方をフレグ家の諸子に分封している。すなわちバグダードの統治権従兄弟の王侯バイドゥに、ディヤールバクル方面の統治権は同じく従兄弟でフレグの次男ジョムクルの嗣子ジュシュケブに、ルーム方面はフレグの十二男フラチュに、グルジア方面はフレグの八男アジャイにである。そしてアルグン自らの嗣子ガザンにはホラーサーン、マーザンダラーン、レイを含むクーミス地方が与えられ、その副官(ナーイブ)にジュシュケブの弟である王侯キンシュウとアルグン・アカの息子でホラーサーン・カラウナス万戸隊長であったノウルーズが付いた。 バイドゥ、ノウルーズらはガザン登極までにガザンとイルハン朝内部の覇権を争った人物であり、アルグンの治世中でもその動向は不穏でありたびたび叛乱・離反をくり返した。ガザンは王族・諸部族長同士の紛争が絶えなかったフレグ・ウルスで、成人したばかりの十代前半からその渦中に少年青年時代を生きたのである。
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即位以前の動向
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第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣の蘇我稲目の女の堅塩媛。第30代敏達天皇は異母兄で夫でもある。第31代用明天皇は同母兄。第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。 『日本書紀』推古紀に「幼曰 額田部皇女 姿色端麗 進止軌制 年十八歳 立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后 卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩」とあり、「姿色(みかお)端麗(きらきら)しく」、挙措動作は乱れなくととのって(進止軌制)おり、18歳で異母兄の渟中倉太玉敷天皇(敏達天皇)皇后となり、34歳のとき渟中倉太玉敷天皇が崩御した。 『日本書紀』敏達紀では、欽明天皇32年(571年)に異母兄の渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)の妃となり、敏達天皇4年(575年)11月の皇后の広姫の崩御を承け、敏達天皇5年3月10日(576年4月23日)、皇后に立てられた。「敏達14年8月乙酉朔己亥」(8月15日)(585年9月15日)に敏達天皇が崩御した。 敏達天皇との間に菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)・竹田皇子・小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)・鸕鶿守皇女・尾張皇子(聖徳太子妃の橘大郎女の父)・田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)・桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃)の2男5女を儲けた。 用明元年(586年)夏5月、敏達天皇の殯宮に異母弟の穴穂部皇子が侵入し、皇后を犯そうとした。寵臣の三輪逆に助けられたが、逆は穴穂部皇子に同調した物部守屋らに追い詰められ殺された。
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