単一約定値段による競争売買
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 09:56 UTC 版)
「商品先物取引」の記事における「単一約定値段による競争売買」の解説
戦後の商品取引所の格付先物取引においては、売買の締結、約定値段の決定は、単一約定値段による競争売買によって行われている。なお、銘柄別取引および実物取引においては、この売買方法によらず他の方法によっている。 単一約定値段による競争売買とは、一定時刻に開始される各場節の売買立会において、取引者が一堂に会し、多数の売手および多数の買手によって売り注文または買い注文が投入されて競合・争合を行い、その状況により上ゼリもしくは下ゼリを行い、最終的に売り・買いの数量と価格が折り合ったときに成立した単一約定値段によってすべての取引が成立する方法であって、条件の合致しない価格の注文はその約定集団から離脱するとのものである。この多数の売手および買手は、セリの過程での仮の約定値段によっては買手ともなりまた売手ともなる。 この方法には、「板寄せ法」と「板寄せザラバ折衷法」(以下「折衷法」という)の2種類がある。この二つの方法は、価格形成の過程において相違はあるが、取引される「売り注文」と「買い注文」が同一であれば、いずれの方法によっても必ずその形成された価格は同一となる。 明治時代から昭和14年まで続いた東京米穀商品取引所では、当初、ザラバ(相対継続)方式による売買が行われ複数約定値段による方法がとられていたが、大正5年に至って、単一約定値段による方法に脱皮すべく検討が加えられた。当時、大阪・名古屋などでは早くも単一約定値段制が採用されていたが、その方法は板寄せ法であった。同所では折衷法を採用することとなり、神戸穀物取引所の前社員の山村瑳磨太を招へいしその指導を受け練習の結果、同年9月1日から折衷法に移行した。折衷法が採用されたのは、板寄せ法に比し立会に活気があり、東京の気風にマッチした売買仕法であったことによるものと思われる[独自研究?]。 なお、戦後に設立された商品取引所は21カ所(昭和49年現在。その他に、昭和57年には東京金取引所が設立されている)であるが、設立当時から先物取引の売買仕法はすべて単一約定値段による競争売買の方法がとられた。そして、板寄せ法を採用したのは大阪化学繊維・名古屋繊維・大阪三品・函館海産物・東京ゴム・名古屋穀物商品の6取引所、折衷法をとったのは福井人絹・東京繊維商品・横浜生糸・神戸生糸・豊橋乾繭・小樽商品(北海道穀物商品の前身)・神戸ゴム・大阪砂糖・東京砂糖・前橋乾繭・大阪穀物・神戸穀物商品・関門商品・蒲郡綿布および東京穀物商品の15取引所であった。その後、単一約定値段による競争売買の方法については、種々の事情により売買仕法を変更した取引所があり、最終的には、平成3年4月の東京工業品取引所のザラバ仕法によるシステム売買がスタートするまで、全商品が板寄せ法になった。また、東京穀物商品取引所が昭和63年4月1日にコンピュータによるシステム売買取引へ変更するまでは、全商品が手振り板寄せ法による取引になった。
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