|
この項目では、西魏により設置された豳州について説明しています。北魏および隋代に設置された豳州については「寧州 (甘粛省)」をご覧ください。 |
豳州(ひんしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から唐代にかけて、現在の陝西省咸陽市北部に設置された。唐代に豳州から改名された邠州(ひんしゅう)についても合わせて解説する。
魏晋南北朝時代
548年(大統14年)、西魏により設置された南豳州を前身とする。554年(廃帝3年)、南豳州は豳州と改称された。
隋代
隋初には、豳州は新平郡とその属県の白土・三水・永寿の3県を管轄した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、新平郡は廃止された。606年(大業2年)、豳州は廃止され、その管轄区域は寧州に移管された[1]。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、寧州は北地郡と改称された[2]。618年(義寧2年)、北地郡の新平県と三水県が分割され、新平郡が立てられた。
唐代
同年(武徳元年)、唐により新平郡は豳州と改められた。725年(開元13年)、豳州は邠州と改称された。742年(天宝元年)、邠州は新平郡と改称された。758年(乾元元年)、新平郡は邠州の称にもどされた。邠州は関内道に属し、新平・三水・永寿・宜禄の4県を管轄した[3]。
宋代
北宋のとき、邠州は永興軍路に属し、新平・淳化・宜禄・三水の4県を管轄した[4]。1117年(政和7年)、寧州の定平県は邠州に移管された。
金のとき、邠州は慶原路に属し、新平・淳化・宜禄・三水・永寿の5県と亭口・清泉・永寿の3鎮と常寧寨を管轄した[5]。
元代
元のとき、邠州は陝西等処行中書省に属し、新平・淳化の2県を管轄した[6]。
明代以降
明のとき、邠州は西安府に属し、淳化・三水・長武の3県を管轄した[7]。
1725年(雍正3年)、清により邠州は直隷州に昇格した。邠州直隷州は陝西省に属し、淳化・三水・長武の3県を管轄した[8]。
1912年、中華民国により邠州直隷州は廃止され、邠県と改められた。
脚注
- ^ 『元和郡県志』:後魏文帝大統十四年於今理置南豳州、廃帝去南字。隋大業二年省入寧州
- ^ 『隋書』地理志上
- ^ 『旧唐書』地理志一
- ^ 『宋史』地理志三
- ^ 『金史』地理志下
- ^ 『元史』地理志三
- ^ 『明史』地理志三
- ^ 『清史稿』地理志十
宋朝の行政区分
|
北宋
|
京畿路 |
|
京東東路 |
|
京東西路 |
|
京西南路 |
|
京西北路 |
|
河北東路 |
|
河北西路 |
|
河東路 |
|
永興軍路 |
|
秦鳳路 |
|
両浙路 |
|
淮南東路 |
|
淮南西路 |
|
江南東路 |
|
江南西路 |
|
荊湖北路 |
|
荊湖南路 |
|
福建路 |
|
成都府路 |
|
梓州路 |
|
利州路 |
|
夔州路 |
|
広南東路 |
|
広南西路 |
|
|
|
南宋
|
両浙西路 |
|
両浙東路 |
|
江南東路 |
|
江南西路 |
|
淮南東路 |
|
淮南西路 |
|
荊湖南路 |
|
荊湖北路 |
|
京西南路 |
|
福建路 |
|
成都府路 |
|
潼川府路 |
|
夔州路 |
|
利州路 |
|
広南東路 |
|
広南西路 |
|
|
|
|
上京路 |
|
中都路 |
|
東京路 |
|
北京路 |
府 |
|
州 |
- 利州
- 義州
- 錦州
- 瑞州
- 懿州
- 建州
- 全州
- 慶州
- 興州
- 泰州
|
|
西京路 |
府 |
|
州 |
|
部族節度使 |
- 烏昆神魯
- 烏古里
- 石塁
- 助魯
- 孛特本
- 計魯
- 部羅火札石合
- 土魯渾札石合
|
詳穏 |
- 咩乣
- 木典乣
- 骨典乣
- 唐古乣
- 耶剌都乣
- 移典乣
- 蘇木典乣
- 胡都乣
- 霞馬乣
|
|
南京路 |
|
河北東路 |
|
河北西路 |
|
山東東路 |
|
山東西路 |
|
大名府路 |
|
河東北路 |
|
河東南路 |
|
京兆府路 |
|
咸平路 |
|
鳳翔路 |
|
鄜延路 |
|
慶原路 |
|
臨洮路 |
|