半田製作所の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:02 UTC 版)
「中島飛行機半田製作所」の記事における「半田製作所の建設」の解説
半田製作所用地として中島飛行機が購入した土地は約85万坪、場所は乙川で国道247号以南の地全部と、同国道の北側では武豊線までの間若干。買収業務は半田市当局が担当し、登記事務は中島飛行機で行った。 ちなみに本工場と飛行場予定地は、大正時代に堤防を作って開拓された土地で、入植した小作の努力の結果、昭和の初めには「郡一の美田」と評されるまでに改良された水田地帯に仕上がっていた。ここでいう郡とはもちろん知多郡のことだが、当時の知多郡は現在の名古屋市緑区である大高町や有松町以南の尾張地方を指すのであり、その広大さの中で評された点を留意すべきである。 1942年6月15日、中島飛行機内に半田製作所建設委員会が発令された。最初の建設事務所として、東海銀行半田支店の2か所の旧支店を借入した。なおそのうち1か所は専ら付属病院の開設準備に使われ、後に敷地内の空き地に木造2階屋を新築して付属病院の診療所となった。 工事請負は一括して清水組(後の清水建設)であった。清水組としても半田製作所は特に厖大な施設で、清水組の東京支店直轄工事として社員70名のほかに多数の臨時社員を使用してこの大工場の建設にあたった、としている。 清水組の初期着工準備、新造の1000馬力サンドポンプ船の来着、送水管の初期設定の完了の後、新築工事地鎮祭が行われた。新築工事地鎮祭は1942年8月20日、場所は工場敷地内の中央西寄り、国道247号線近くの38号棟予定地と定め、質素ながらも厳粛に神事をとりおこない、サンドポンプ船の送泥噴出を供覧したという。 地鎮祭後、用地造成は清水組のサンドポンプ船6隻による海底の土砂の吸い上げと阿久比町横松の山土の運搬で行われ、約2mほどかさ上げされた。工事を急ぐ軍からは「水田は30cm程度埋め立てればよい」といわれたが、愛知県の許可が下りず約2mの土盛となった。このおかげで以後この工場は水をかぶるようなことはなかったが、工事がなかなか進まないこともあって付近の紡績工場を買収・借用を行った。 なお、38号棟完成後は、建設事務所を38号棟内に移した。 一方で1943年中に初号機を半田製作所から飛ばすことが至上命令とされていたため、組立工場と滑走路の建設が先となり、周囲の道路などは後回しで、部品や材料を運ぶには泥田を渡っていかなければならないような状況だった。そのため半田製作所の従業員はカンカン照りの日でも常に長靴を履いていなければならなかったという。また本工場内の建物は治具を取り付ける関係上、基礎はしっかりしていたが、屋根は杉皮葺きだけのところもあったという。
※この「半田製作所の建設」の解説は、「中島飛行機半田製作所」の解説の一部です。
「半田製作所の建設」を含む「中島飛行機半田製作所」の記事については、「中島飛行機半田製作所」の概要を参照ください。
- 半田製作所の建設のページへのリンク