半田製作所の疎開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:02 UTC 版)
「中島飛行機半田製作所」の記事における「半田製作所の疎開」の解説
政府の勧めにより1944年12月には半田製作所の疎開が計画されたが、1945年7月より前には空襲がなかったことから警戒心も生まれず、実際の疎開措置は終戦までの間、大規模に行われることはなかった。岡崎・小松・伊那の3つの主な疎開工場が計画された。以前から半田で完成した飛行機を引き渡していた岡崎工場では、彩雲の月産20機が可能な最終組立施設を1945年10月までに完成させる予定だった。 長野県の伊那分工場は、1946年3月操業を見込み、完成時点では月産50機の彩雲組立が十分可能な設備が活用できるはずだった。 小松分工場は1945年12月完成予定で生産能力は彩雲の月産70機、石川県と富山県の各地に9か所の工場を含む予定だった。小松の佐美町にある佐美工場には1945年3月末に半田から何台かの機械が移設されていた。天山は旧式化したと考えられるようになり、疎開はされず半田製作所に残された。
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