十ヶ川と半田運河の掘削
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 02:43 UTC 版)
阿久比川の最下流に位置する半田の町は江戸時代前期から酒や酢を中心とした醸造業で栄え、江戸時代中期からは大型廻船で半田湊から江戸や大阪などに産物が運ばれていた。天明8年(1788年)には5万石もの酒米が酒造りに充てられ、徳川御三家や尾張藩の奨励もあって大きく発展していった。文化元年(1804年)にはミツカン創業者の中野又左衛門が醸造酢作りに成功し、19世紀半ばには75軒もの酒造家がひしめき合っていた。知多半島は降水量が多くなく、大規模な河川が存在しないことから、丘陵の末端部に井戸を掘って上水道で運んだ水を醸造に用いていた。 しかし、半田の町を流れる阿久比川は中流から下流にかけて完全な天井川であったため、大雨の際には半田の町はたびたび洪水被害に遭った。その際に溜まる土砂の堆積で湊の水深が浅くなり、船舶の通行に支障をきたしていた。このため、元禄年間(1688年-1704年)から10年がかりで大規模な排水工事と新田開発が行なわれ、延長573m・全幅33mの入江である半田運河が整備された。安政2年(1855年)の大洪水後にも排水路と運河の工事が行なわれている。 戦後の1950年代にはほぼ現在の姿となり、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風後には水門や防波堤護岸の近代化が図られた。かつては生活排水や工業排水の流入による汚泥問題が深刻化していたが、1991年(平成3年)に衣浦港半田運河再生事業計画が策定され、源兵衛橋の改築や遊歩道の設置などが行なわれ、黒板塀の醸造蔵に石畳の道が川面に映る現在の景観となった。
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