北朝鮮へ移動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 00:40 UTC 版)
呉は1980年代初頭に韓国政府に対する政治運動に関わるようになった。呉は宋斗律(朝鮮語版)(ソンドゥユル)や音楽家尹伊桑を含む何人かのドイツの有名な韓国の左派活動家に影響された。彼らは後に、呉が北朝鮮の経済学者として働くことによって祖国を助けることができると勧めた。呉の左翼家としての活動は北朝鮮政府の代表者の注目を集め、さらに呉の妻が平壌で無料の肝炎の治療が受けられると騙して北に亡命させようとした。 申の反対をよそに、家族は1985年12月8日に北朝鮮に到着した。ルートは、西ベルリンから東ベルリン、モスクワを経由して平壌直轄市というコースであった。呉と申は約束した治療を受ける代わりに、軍の宿営所にとらわれ、金日成の主体思想を研究することを強制された。そして2人は韓国向けのプロパガンダ放送のために用いられた。そこにいる間、やはりプロパガンダ放送に用いるために大韓航空機YS-11ハイジャック事件で連れてきたソン・ギョンフィら客室乗務員の2名を含む、北朝鮮による韓国人拉致問題の被害者達と会ったと呉吉男は証言した。北朝鮮抑留中の呉はまた、日本人拉致被害者の石岡亨、生島孝子を目撃しているという。 その後、北朝鮮当局は他の韓国の学生達を北朝鮮におびき寄せるために、家族は一緒に行けないと伝えて呉吉男をドイツに送り戻した。呉が後に語ったところによれば、彼が韓国人を何人か連れて戻って来ると言った時に、申は呉の顔を打ち「私たちが誤った意思決定のための代償を支払わなければならないとしても、他の人達を犠牲にする命令には従わずに逃げなさい。私たちの娘も憎むべき共犯者の娘になるべきではありません。もしこの国を脱出した場合、私たちを救出してください。しかし、あなたが失敗した場合、私と娘たちは死んでいたと思いなさい」と言った。
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