北上回漕会社前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 01:48 UTC 版)
岩手県は、江戸時代より、南部藩、伊達藩領内ともに、年貢米の輸送等に、北上川の舟運を利用していた。 南部藩においては、北上川の舟運は寛永年間(1624年~1643年)に始まった。盛岡城に程近い、現明治橋のたもとの辺りに、盛岡の積出港として「新山河岸」があった。そこから黒沢尻(現北上市)までは、小繰舟(おぐりぶね)という小型の舟(米100俵積載)で進み、北上川が多少広くなる黒沢尻にて、大きく、かつ浅い水深を航行できる平田舟(ひらたぶね)に積み替えられ(米350俵積載)石巻港まで運ばれた。黒沢尻は藩境であり、遠野や大船渡からも、品物が集まる集積地であったため、藩蔵や川留番所なども置かれた。石巻には、黒沢尻同様に、南部藩の御用蔵が置かれ、石巻港から千石船で江戸へと運ばれていた。 その行程は、盛岡から石巻間(200km)を、下り3.5日、上り14日を要した。流れの強い場所では、陸から舟を引いて進む必要があり、そのような場所では川に沿って「舟引道」が作られた。 南部藩は、1673年(寛文13年)から2年をかけて盛岡城下の河道を直線化する付け替え工事を行い、新たに堀割された川を「新川」と名づけた。 仙台藩では、1605年(慶長10年)に、佐沼城に入った伊達氏家臣、白石宗直の手により、北上川の流路の変更に着手。5年の歳月をかけて、北上川を米谷(現登米市東和町米谷)へと湾曲させ、二股川に合流させる「相模土手」を作ったことに始まる。 伊達政宗は、仙台藩の発展のためには北上川の改修と活用は欠かせないとして、北上川流路の大改造を決断、川村孫兵衛を招聘して、1623年(元和9年)から4年の歳月をかけて、北上川の大改修工事を行った。これは、北上川、迫川、江合川の三川を一本化するものであり、この工事の完成以後、北上川の舟運は大発展し、その河口に位置する石巻は、南部藩、伊達藩の年貢米の一大集積地となり、陸奥の物流の中心港としての地位を確立した。伊達領内の北上川沿いには、51箇所の河岸が存在した。
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