北上回漕会社の誕生とは? わかりやすく解説

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北上回漕会社の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 01:48 UTC 版)

北上回漕会社」の記事における「北上回漕会社の誕生」の解説

明治時代になると、南部藩仙台藩消滅し地租貢納廃止され総ての税は金銭納入改革されたので、年貢米輸送なくなったため、官営米穀倉庫やその運輸利用していた艜舟が払い下げられ回漕業が民間移されたが、産業発展流れの中で人や物流需要高まっており、北上川舟運重要性はますます高くなった。 そうした中、盛岡斉藤市太郎や、黒沢尻阿部兵衛の手による舟運開始された。盛岡新山河岸から石巻港まで月三回の運航であった。そして、1885年明治18年)には、盛岡財界人出資による民間会社、「北上回漕会社」が創立東北本線開通する前の時代に、盛岡から石巻までの貨客船事業開始一時藩政時代凌ぐ繁栄謳歌した本社盛岡市中の橋(現岩手銀行中の橋支店)に、支店石巻置いた石巻港船着場は、現在の住吉公園存在していた。 この航路は、黒沢尻まで小繰舟、狐禅寺まで平田舟大型艜舟)、石巻まで川蒸気船という、3種類の舟を駆使して運航されていた。うち、蒸気船は、狐禅寺石巻の間を毎日運航し大い活用された。 1861年明治24年以降は、鉄道東北本線開通により、小繰舟や平田舟使った盛岡 - 狐禅寺間の舟運は、すぐに衰退向かったが、狐禅寺 - 石巻航路は、大船渡線開通まで地域の足として生き延びた。特に、気仙沼街道起点にあたる薄衣は、一ノ関から気仙沼へと向かう乗客中継点となり、石巻航路のみならず狐禅寺 - 薄衣航路設定され大いに賑わった。

※この「北上回漕会社の誕生」の解説は、「北上回漕会社」の解説の一部です。
「北上回漕会社の誕生」を含む「北上回漕会社」の記事については、「北上回漕会社」の概要を参照ください。

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