北上川5大ダム計画の胎動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 07:42 UTC 版)
昭和に入り、TVA(テネシー川流域開発公社)の影響を受けた当時のダム技術・理論の第一人者・物部長穂は水系を一貫して総合的な開発を行う事により、治水・水力発電・灌漑・上水道といった複数の目的を同時に果たす事を可能とする『河水統制計画案』を纏めた。これは内務省官僚・青山壮によって採用され、1938年(昭和13年)に全国の7河川と諏訪湖を対象とした「河水統制事業」が実施される事となった。東北地方では奥入瀬川と浅瀬石川が対象となっている。 北上川についても、一関市より登米市に至る流域は両側に山地が迫り川幅が急に狭くなる地形となっていた。いわゆる「北上川癌狭窄部」によって洪水流下能力は阻害され、一関市は特に洪水の被害が頻発していた。これに対し内務省はダムによる洪水調節を行って一関市狐禅寺地点で洪水流量を浸水が起きない程度に低減させる事とした。これは「北上川上流改修計画」と呼ばれ、その根幹事業として北上川本川・雫石川・猿ヶ石川・和賀川・胆沢川の岩手県内主要支川におけるダム計画が立案された。いわゆる北上川5大ダム事業の誕生である。内務省は一番目に猿ヶ石川中流部にダム建設を計画した。これが田瀬ダムであり、国が直轄事業として建設に着手したダムとしては最初の例である。1941年(昭和16年)より工事は開始されたが、太平洋戦争の激化により事業は1944年(昭和19年)8月の『決戦非常措置要領』の発令により中止となった。
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