劉乂の死とは? わかりやすく解説

劉乂の死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:41 UTC 版)

劉聡」の記事における「劉乂の死」の解説

317年1月、漢軍が長安から東に兵を派遣して弘農郡攻撃した太守の宋哲は江東逃走した2月劉聡従弟劉暢に晋の滎陽郡太守李矩攻撃させた。劉暢は韓の古砦に駐軍すると李矩使者送った李矩偽って劉暢降伏し喜んだ劉暢宴会開いた諸将酔い潰れた頃、李矩夜襲仕掛け勇士1000人を選ぶ郭誦命じて劉暢攻撃させた。漢軍は大敗して1000人が斬られ、劉暢敗走した3月劉粲王平命じて「詔によれば都に異変起ころうとしております武具集めて備えられますように」と劉乂向かって発言させた。劉乂はこれを信じ、宮臣に命じて宮殿武具集めさせた。劉粲使者靳準王沈のもとへ派遣して王平によれば東宮非常事態備えているとのことだが、どうすべきか」と問うた。靳準がこれを報告すると、劉聡大い驚きそのようなことがあるのか」と言った王沈らが声を揃えて「臣らは久しくこのことを聞き知っておりましたが、陛下信用されないことを恐れていたのです」と言った劉聡劉粲命じて東宮包囲させた。劉粲王沈靳準命じて氐族羌族酋長10余りを捕えて肉刑加えさせ、劉乂と共に反逆謀ったと嘘の自白をさせた。また、劉乂親しくしていた大臣および官属数十人が誅殺されたが、彼らはみな靳準宦官たちが普段から憎んでいた人々だった。劉聡王沈に対して「今になって卿らがいかに朕に対して忠誠尽くしていたかを知った。さきに言を用いなかったことから知っていても言わないことのないように」と言った4月劉乂廃され北部王に降格となった間もなく劉粲命令靳準刺客放って劉乂殺害された。 劉乂温厚な性格で、寛大な人柄であったために、多く兵卒から慕われていた。 劉乂殺害されたと聞くと、異母兄劉聡慟哭して「朕の兄弟で残るはただ2人となっていたのに、相容れることができなかった。どうやって天下に朕の心を知らしめることができようか」と嘆いた。 この一件東宮四衛の兵1万5000余り生き埋めにして殺しこのため平陽の町は空虚となったまた、氐族羌族10万部落余り反乱起こし靳準を行車騎大将軍としてこれを討伐させた。 劉聡領域内において大発生し、平陽冀州雍州で最も酷かった靳準がこれの対処あたったが、その最中二人の子突然死亡したという。 7月殊死以下に大赦施行し劉粲皇太子立て相国・大単于任じ以前通り朝政統べさせた。

※この「劉乂の死」の解説は、「劉聡」の解説の一部です。
「劉乂の死」を含む「劉聡」の記事については、「劉聡」の概要を参照ください。

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