剛球投手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:37 UTC 版)
広い肩幅のいかにも頑丈そうな体を持ち、投球フォームは振りかぶって足を上げるとそのまま上半身を後ろにひねって打者に背中を見せる、野茂英雄により有名となったいわゆるトルネード投法であった。この投球フォームにより、球の出所がわかりづらい上、ストレートは速い上に重く、変化球はカーブ、ドロップ、シュートと、当時としては多彩。さらに学年があがるにつれて制球力が付くとこれらを内外角に投げ分けて対戦校は大いに手を焼いた。 コントロールに難があった時期もあったため、打者は恐ろしさから自然と腰が引けてしまい、バットを振るどころではなく当てるのが精一杯であったといわれる。対戦した選手達は一様に「生涯に出会った最強の球だった。」と口をそろえたという。 1931年に明石中学エースとなってからは、必ず先発マウンドに立ち、ほとんど一人で投げぬいた。 明石中でチームメイトだった嘉藤栄吉二塁手は「楠本さんが投げれば、ほとんど外野までボールが飛ばない。守っていても負ける気がしなかった。1試合で24個の三振を取った事もあった。」と証言している。 1932年の第18回大会では、準々決勝の八尾中戦後の新聞の講評に「唸らんばかりの速球のシュートと外角を衝く直球の交用がすでに十二分強さを持つ上に、同じコースから落す内角のドロップと、外角へのアウドロの鋭く巧みなカーブは全く手のつけようがない厄介なものであった。殊にこの各種投球の会心なるコントロールは、ますますそのピッチングに窺ひ難き変化の妙を見せて……」とあり、ストレートで押すだけでなく、安定したコントロールを身に付け、変化球とコースの投げ分を駆使した完成された投球スタイルである事がうかがい知れる。ただこの年においても必ずしも毎試合コントロールが安定していたわけではなかったようで、初戦の北海中戦後の講評では「(北海中が楠本の)速球に惑わされて選球が粗かった事は否めない」と書かれている。 しかし、上半身と腕力による力感あふれる投球フォームは、逆に楠本の投手生命を短くした。全盛期は明石中学4年生時の1932年で、その後楠本の体は下降線をたどる。翌年夏の甲子園大会では、脚気の兆しやあせもの悪化もあって第二投手の中田武雄との継投が増え、そして準々決勝の横浜商戦の6回終了後交代したのが投手としての最後の姿となった。翌日の準決勝中京商戦は歴史的な大試合となったが(→中京商対明石中延長25回を参照)、楠本は右翼手で出場し1度もマウンドに立たなかった。 投手生命は明石中時代で終わっていたといわれ、事実、卒業後の慶應義塾大学では正式に外野手に転向した。
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