刺繍針
刺繍針
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/07 15:23 UTC 版)
古語(文言文)における民間記載はまったく存在しない、現代創作の可能性がある。 民間伝承の『刺繍針』によると、ある夜、趙雲が戦場から帰ってくると孫軟児はお風呂を沸かせて待っていた。孫軟児が「本日も、お勤めご苦労様でした。子龍池で汲んだ霊泉水を沸かしたお風呂をご用意いたしました。冷めないうちにどうぞ、白龍(白龍駒、趙雲の愛馬)には霊泉水の用意があります」と言うと、趙雲は「ありがとう」と言い、返り血や土埃で汚れた衣服を脱ぎ、湯気が立ち籠める湯船に浸かった。 孫軟児は浴場の隣で蝋燭を灯して、服の破れた場所に目立たないように刺繍をしながら、ふと、月明かりのもとで夫の身体が水晶の如く透き通り、鎧服(がいふう、鎧兜(甲冑)や衣服)から解き放たれた白い肌が桃色に染まっていくのに気が付いた。 孫軟児は不思議に思い「長年、戦場を駆け抜けたのに、あなたの背はなぜそのように白いのですか?」と尋ねると、趙雲は笑いながら「私は戦友から常勝の兵などと呼ばれ、大きな怪我をしたことがない。陛下から賜りし鎧や妻である君が織ってくれた服に守られた肌の傷は小さく、いつもこの子龍池の霊泉や君の笑顔で癒されているからだよ」と答えた。 孫軟児は「今日は常勝将軍様に傷を付けちゃおうかしら?」などと冗談を言いながら、刺繍針を趙雲の肩にちくりと一針刺した途端、肩から鮮血が泉のように噴き、滝のように流れ出して止まらなくなった。慌てて持ち出した薬箱の薬草や包帯を試してもほとんど効き目はなく、最期を悟った趙雲は妻を責めず、それまでの労に礼を言い遺し、それからすぐに顔から血の気が引いて死んでしまった。孫軟児は声が嗄れるほどに泣き、子供たちの制止を振り切り、自らの行いを責めながら刀を喉元に突き立て、趙雲の亡骸の傍らで自刃して死んだ。 趙雲の訃報は趙統、趙広の息子2人によって諸葛亮らに届けられ、「我が四友(劉備、関羽、張飛、趙雲)、ここに奪われり」と悲哀の余り倒れる。その昏睡の中で諸葛亮は、趙雲と孫軟児が睦まじく微笑みながら、劉備と関羽と張飛に導かれる姿を夢に見て目を覚ます、といった顛末になっている[要出典]。
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