切支丹物との出会い
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1938年(昭和13年)5月に、安吾作品では最も長い700枚の渾身作「吹雪物語」を脱稿して上京し、本郷の菊富士ホテルに滞在。竹村書房から長編『吹雪物語』を7月に刊行するが、失敗作と評され失意に陥る。6月には可愛がっていた姪の村山喜久が松之山の自宅の池の前で自殺し二重の苦悩の中、執筆に専念し、12月に三好達治の雑誌『文体』に説話体小説「閑山」を発表した。日本の古典文学や昔話に親しみ、1939年(昭和14年)2月にも、説話体小説「紫大納言」を『文体』、3月は「木々の精、谷の精」を『文藝』に発表した。同年5月、安吾は〈人々のいのちとなるやうな物語〉を書くべく、新たな小説の腹案を練るため、茨城県取手町の取手病院の離れに住み込むが、何を書いても本当の文学が書けない思いで空漠とした生活を送る。 翌1940年(昭和15年)1月には取手の寒さに悲鳴をあげ、三好達治の誘いで小田原早川橋付近の亀山別荘という結核患者のための家に転居する。リルケの『マルテの手記』を読み、絶望の必要性を教えられたことと、三好の勧めで『日本切支丹宗門史』など切支丹物を読み始め、執筆意欲を取り戻し、7月に歴史小説「イノチガケ」を『文學界』に発表する。12月に上京し、「風人録」を『現代文學』に発表。歴史小説への意欲は同人雑誌の頃の若い時代にも潜在していたが、ここで新たに歴史人物への共感と視野が広まる。
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