公妃としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 03:53 UTC 版)
「イザベル・ド・ポルテュガル」の記事における「公妃としての活動」の解説
1430年12月、イザベルはクーデンブールで第1子アントワーヌを出産した。見るからにひ弱な赤ん坊だったアントワーヌは早世した。1431年秋に再度の妊娠がわかった頃、フランス王シャルル7世がディジョンを攻撃していたため、善良公はクーデンブールから離れていた。この時、夫の不在時に代理として守備を固め、王軍の攻撃を乗り切ったとされる。1432年に次男ジョゼフを、1433年11月に三男シャルルを生んだ(イザベルの孫でシャルルの娘であるマリーの夫・神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世はイザベルの兄・ドゥアルテ1世の孫で2人は又従姉弟である)。イザベルは自らシャルルの養育に当たり彼の人格形成に大きな影響を与え、真面目な反面人間不信で粗暴な人物になっていった。 善良公とイザベルの結婚はイングランドとの関係強化にならなかった。イザベルの従兄に当たるベッドフォード公ジョン(ヘンリー5世の弟)は善良公の妹アンヌと結婚していたが、善良公の結婚に出席せずブルゴーニュとイングランドの関係は徐々に冷え込んでいったのである。1432年にアンヌと死別したベッドフォード公は翌1433年にジャケット・ド・リュクサンブールと再婚、そのことで善良公と一層疎遠になった。 イザベルは、芸術家と詩人に囲まれた華やかな宮廷の女主人であり、政治面においては夫に最も影響を与えた女性であった。主に外交面で手腕を発揮、1435年にアラスでイングランド・フランス・ブルゴーニュ講和会議が開かれると夫と共に出席、イングランドが退去しフランス・ブルゴーニュ間でアラスの和約が成立すると、イザベルはシャルル7世から両国の和平に尽力したとして4000ポンドの年金を送られた。一方、イングランドが報復としてフランドルを攻撃すると、ここでも調停に出てイングランド・ブルゴーニュ間の和平会談を整え、1439年の休戦協定締結に一役買った。夫の政敵でイングランドに捕らえられていたオルレアン公シャルルの釈放にも尽力、1440年に釈放されたオルレアン公は善良公と和睦して彼の姪マリー・ド・クレーヴと結婚した。 夫の死後シャルルが公位を継ぐと、フランスへの対抗でイングランド・ブルゴーニュ間を結ぶため、シャルルの3番目の結婚相手にイングランド王エドワード4世の妹マーガレット・オブ・ヨークを選び、1468年に挙行された結婚式に出席した。ポルトガル・イングランド・ブルゴーニュを繋ぐことが狙いだったとされる。3年後の1471年に74歳で亡くなった。 ポルトガルとブルゴーニュの縁組は両国に利益をもたらす結果になった。当時のポルトガルはエンリケ航海王子の許で航海事業が発達していたから、ブルゴーニュは国の主要産業である毛織物の市場が拡大したばかりではなく、国内に東方(オリエント)の産物がもたらされた。逆に、ポルトガルにはフランドルの洗練された文化がもたらされた。
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