公務員ランナーとして
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同年暮れ12月の第22回国際朝日マラソンでは、その年の日本最高記録、2時間12分40秒6で2位となり意地を見せた。翌1969年2月の第18回別府毎日マラソンでも2位(2時間17分38秒)。同年4月21日の第73回ボストンマラソンでは大会新記録の2時間13分49秒を出して優勝した。采谷がオニツカタイガーを使用したことから、ジョギングブーム創世記に、オニツカタイガーの名を世界的に有名にしたといわれる。これら目覚ましい活躍で"ミュンヘンオリンピックの本命"と騒がれ、鐘紡、神戸製鋼、東洋工業、旭化成などの大会社から誘いを受け悩むが、最後は生徒への愛着から教師として競技を続けることを決断した。 何度かスランプもあったが、1971年3月の第26回びわ湖毎日マラソンで優勝するなどで(2時間16分45秒4)、1972年のミュンヘンオリンピック男子マラソン代表を勝ち取る。代表3選手(今回は補欠は置かれなった)は「切り札・宇佐美彰朗、ここ一番・君原健二、執念・采谷義秋」と評された。しかし本番では36位(2時間25分37秒4)に終わった。マラソンだけでなく駅伝にも呉市体協の大黒柱として中国駅伝(現・天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会)に出場、都市の部のエースであった。その後も広島県立海田高校、広島県立呉昭和高校、広島県立広高校等で教員を務めながら約10年間、日本のトップクラスのマラソンランナーとして活躍した。 大学入学以降、学校教師時代を通して特定のコーチを付けず競技生活を全う、マラソン大会へは、広島県教育事業団所属の高校教師として出場した公務員名ランナーであった。金栗四三は采谷について、「昔のわしのように、学校の先生をしながらマラソンをやってるのは采谷君だけですからね。わしの後五十年以上も、そういう人はでなかった。いってみれば、跡継ぎですな」と話した。 現役引退後も定年まで教職を続けた。長く居住した竹原市では、2004年から采谷の名前を冠したクロスカントリー大会「采谷記念・ラビットクロカンin大久野島」が毎年開催されている。
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