全国的な米不足の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:30 UTC 版)
「天明の打ちこわし」の記事における「全国的な米不足の発生」の解説
18世紀後半の天明期、松前の海産物、魚肥生産地帯、安芸の塩田地帯、摂津西部の酒造地帯など全国各地で米の大量消費地が形成されるようになった。また都市の成長や産業の勃興などによって各地域内においても米の消費地が形成されるようになり、その結果畿内、東海、日本海沿岸の主要都市などでは地方米市場が発達してきた。これら地方都市の米市場はそれぞれ全国の米流通とリンクしたため、全国的に米の流通が活性化することになった。そのような状態下で発生した天明6年から7年にかけての米価高騰は、投機的な米の流通に拍車をかける原因となった。天明6年9月から11月にかけて施行された米穀売買勝手令など江戸での米価引き下げ策に偏重した幕府の政策もあって、地方市場から江戸に向けて米が大量に輸送されたため、西日本を中心として広い範囲で米不足が顕在化し米価が高騰した。 また当時全国の米流通の拠点であった大坂の米市場も、当時発達を見せていた地方の米市場の影響を蒙り、変化を見せていた。これまで多くの米は大坂の市場で販売されていたものが、各地方にある米市場の動向を見ながら米の売却を行うようになったこともあって大坂米市場の影響力が低下し、また大坂市場に来る米の量も安定しないようになっていた。天明6年から7年にかけて大坂にやって来る米の量は減少したのにもかかわらず、大坂から江戸に向けられる米の量は減少しないどころかむしろ増加したため、大坂は急速な米不足に見舞われて大坂の米市場は機能停止状態に陥った。その結果天明6年5月から6月にかけて大坂では米価が暴騰し、大坂を基点として打ちこわしが全国へと波及することになった。 そして天明6年から7年にかけての米不足に拍車をかけることになったのが東北地方の動向であった。天明6年、東北地方は冷害に見舞われたとはいえその被害は比較的軽く、全国的に見れば作柄は良好な方であった。しかし東北地方は天明3年から4年にかけて数十万人が餓死したと推定される凄まじい飢饉の直後であり、大飢饉の再来を恐れる東北地方諸藩は米の搬出にブレーキをかけた。この結果、天明6年から7年にかけて東北地方では比較的米の流通に余裕が生じ、一部で打ちこわしが発生したもののその影響は他地方と比較して軽微であった。しかし東北地方の米移出の制限は全国の米市場の更なる逼迫を招き、米価高騰に拍車をかけることになった。
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