全国的な労働運動と政治へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 15:13 UTC 版)
「ユージン・V・デブス」の記事における「全国的な労働運動と政治へ」の解説
翌1895年に釈放されたデブスは、プルマン・ストライキの経験者と社会民主党を組織し1900年の大統領選挙に立候補したのを皮切りに、1904年、1908年、1912年の大統領選挙にアメリカ社会党から立候補した。そのうち、1912年の得票率6%が最高の成績であった。 また、1905年にはサミュエル・ゴンパーズ率いるアメリカ労働総同盟(AFL)の労使協調を主張してストライキや革命運動に反対する保守傾向を非難し、新たに結成された世界産業労働組合(IWW)にダニエル・デ・レオンらとともに創設者のひとりとして加わった。しかし、ストライキやプロパガンダ活動、ボイコットなどの直接行動が主流となるなかでアメリカ社会党を軸に政党や選挙、議会などの政治闘争を重視するデブスやデ・レオンの路線は少数となり、1908年には離脱を余儀なくされた。 その後もIWWの直接行動路線に社会党は振り回されることとなった。民主党と共和党の両党だけでなく、進歩主義の風潮のなかで進歩党が結成されるなど、社会党の存在は既存の政治勢力に競うように取り込まれていった。そんな進歩した政策を執った政治家の筆頭こそ民主党のウッドロウ・ウィルソン大統領であり、社会党は独自性を失っていった。
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