先駆的な反ファシズム知識人
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「ジャン・カスー」の記事における「先駆的な反ファシズム知識人」の解説
1933年1月30日にヒトラー内閣が成立すると、(共産党)革命作家・芸術家協会(フランス語版)の機関誌『赤紙』にヒトラーの人種主義に抗議する記事を掲載し、作家のピエール・モランジュ(フランス語版)が『前哨』誌に掲載した反ファシズム調査に協力した。また、1934年2月6日の危機の直後、反ファシズム知識人監視委員会 (CVIA) の集会を開くなど、カスーは「全世界における脅威の急激な高まりに気づいていた知識人の一人であった」。 1935年10月にムッソリーニがエチオピアに侵攻すると(第二次エチオピア戦争)、これを支持する極右アクション・フランセーズのアンリ・マシス(フランス語版)が『西欧の擁護』宣言を発表。多くの右派・極右知識人が名を連ねていた。これに対してカスーらの反ファシズム知識人は左派の新聞『ルーヴル(フランス語版)』に同宣言に対する抗議声明を発表した。カスーはさらに革命作家・芸術家協会の機関誌『コミューン(フランス語版)』に「われらもう一つのネグロイド」と題する記事を発表し、「白人」右派のナショナリズム・ファシズムを激しく批判。翌1936年に反ファシズムを掲げて結成された人民戦線に参加し、共産党系の雑誌・新聞『金曜(フランス語版)』、『コミューン』、『世界(フランス語版)』などに記事を多数掲載した。1936年にパリ・コミューンを扱った社会小説『パリの虐殺』、次いで二月革命の精神史『1848年』を発表した。とりわけ、1939年出版の小説『大群』は集団主義を批判し、全体主義の台頭に警鐘を鳴らす作品である。
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