傭船時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 15:35 UTC 版)
比羅夫丸型2隻は、冬季は交代で入渠するため、就航一冬目は1船1往復に減便された。しかし、これでは便利な通年2往復を期待する旅客の要望に応えられず、就航二冬目半ばの1910年(明治43年)1月25日より、帝国海事協会から青函間4時間運航可能な船ということで、1909年(明治42年)7月竣工の義勇艦うめが香丸(3,273総トン、速力21.315ノット)を約1年間傭船して、通年2往復定期運航を維持した。その後も引き続き、比羅夫丸型2隻の他に、傭船や国鉄の他航路からの転属船を運航したが、それらの船は青函間5~9時間を要した。それでも、これらの隻数を増やしつつ、増加著しい客貨輸送に対応していたが、1917年(大正6年)以降は、その3年前に勃発した第一次世界大戦による国内の好景気と船腹不足による海運貨物の陸運転移、傭船料高騰、沖繋りによる非効率な荷役もあり、青函航路の輸送力不足は客貨共決定的となり、両港に滞貨の山を築く混乱状態に陥ってしまった。このことが1925年(大正14年)8月の翔鳳丸型車載客船による車両航送開始の契機となった。 しかしこの混乱解消のため、船価高騰と鉄材不足の中、鉄道院は1918年(大正7年)には木造貨物船白神丸・竜飛丸を建造し、1919年(大正8年)には鉄道院の木造石炭運搬船第一快運丸・第二快運丸を青函航路貨物船に転用し、貨物輸送力増強に努め、これに呼応して1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけ、比羅夫丸・田村丸では貨物積載設備撤去と旅客定員増加工事を行って旅客輸送に専念させた。1924年(大正13年)5月から同年末にかけ、旅客定員の多い翔鳳丸型車載客船が順次一般客船として就航したため、田村丸は同年12月11日係船された。 1910年(明治43年)1月の義勇艦うめが香丸の傭船開始から、車両航送導入直前の1925年(大正14年)5月の山陽丸解傭までの15年間、青函航路に傭船された民間船は16隻にのぼり、このほか官庁所有船では、廃止になった舞鶴-境航路の第二阪鶴丸、関釜航路の対馬丸(初代)、壱岐丸(初代)、逓信省航路標識視察船羅州丸が一時就航していた。これらの傭船に多くを依存したこの時代を「傭船時代」と区分することがある。
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