修学時代(1923–1930)
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「ディートリヒ・ボンヘッファー」の記事における「修学時代(1923–1930)」の解説
1923年にテュービンゲン大学福音主義神学部に入学し、神学の学びを始めた。ここで、哲学の講義も受講している。ここではテュービンゲン大学学生組合イーゲルに加入した。ローマでの研究滞在の後、1924年にベルリン大学神学部に転学した。ここで自由主義神学の担い手たちに出会ったが、とりわけ、アドルフ・フォン・ハルナックから大きな影響を受けた。この時期、独自の弁証法神学を提起していたカール・バルトに傾倒した。ある種の批判的な距離を持ち続けていたが、ボンヘッファーはこの時以来、常にバルトと彼の神学に結びついていた。1927年、21歳で彼は神学博士号をベルリン大学神学部から授与された。教理史家のラインホルト・ゼーベルク教授の下で学位請求論文『聖徒の交わり』(Sanctorum Communio)を書き上げ、最優秀(summa cum laude)の評価を得た。バルトと並んで、ヘーゲル、マックス・ヴェーバー、エルンスト・トレルチから神学的、社会学的省察に関する影響を受けた。1928年1月に古プロイセン合同福音主義教会ベルリン=ブランデンブルク地区の牧師資格を得るための第1次神学試験(合格者は通例、牧師補に任職)を受けた。1928年2月から1929年2月まで、バルセロナドイツ人福音主義教会共同体の牧師補を務めた。1929年にベルリン大学神学部の助手になり、1930年の24歳時に超越論哲学と存在論を扱った組織神学論文『行為と存在』で大学教授資格を与えられ、第2次神学試験を受けた。牧師任職を受けられる規定年齢の25歳になっていなかったので、この段階ではボンヘッファーはまだ牧師には任職されず、牧師補のままであった。 1930年から1931年にかけてアメリカ合衆国に留学し、ニューヨークのユニオン神学校のラインホルド・ニーバーの下で学ぶ。この滞在中に、ハーレム地区のアフリカン・メソジスト・エピスコパル教会の共同体と接触する機会があり、アフリカ系アメリカ人に対する差別の問題に触れる。その後、マハトマ・ガンディーの思想からの影響と共に、アメリカでの経験が福音の社会的側面に対してボンヘッファーの考えが変わり、神学者として出発する。その後キリスト者として、やがて同時代人として生きることを選ぶ一つの契機となったと考えられる。
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