東京修学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/21 08:02 UTC 版)
1883年(明治16年)、東京大学古典科で官費生補欠募集があったため、再び上京し、漢書部に合格した。在学中、私塾でドイツ語を学んだが、上達せず悶々としていたところ、1884年(明治17年)9月、司法省正則法学校の募集があったため、フランス語を学ぶため転学を決意し、官費生首席として合格した。 1885年(明治18年)9月、正則学校は大学に合併され、その後再編により大学予備門、第一高等中学校生徒となった。1886年(明治19年)3月、官費が廃止され、神田区、本郷区辺の下宿屋に移った。1888年(明治21年)7月、予科を卒業して法科に進み、1889年(明治22年)7月、文科に転じた。 1890年(明治23年)3月、再び寄宿舎に入り、学生自治を主導、端艇部応援歌『花は桜木人は武士』を作詞し、1891年(明治24年)5月には諏訪地方出身者を対象とした学生寮「長善館」(江戸時代の諏訪藩校と同名)を建設した。1891年(明治24年)7月、高等中学校を卒業し、9月文科大学哲学科に進んだ。
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