信仰を妨げるものとしての富
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 19:32 UTC 版)
「キリスト教における富」の記事における「信仰を妨げるものとしての富」の解説
マルティン・ルターはマンモン(または富への欲望)を「地上で最も見かける偶像」とみなした。イエスが金持ちに会ったときの話(マルコによる福音書 10:17-31)は富が信仰を妨げている例である。富自体が信仰を妨げているのではなく、むしろイエスに従うために富を諦めることが出来ない、その情念が妨げているのである。これはパウロのテモテへの手紙一における考察にも同様のものを見ることができる(テモテへの手紙一 6:9)。パウロは「金銭を愛することは、すべての悪の根である。(テモテへの手紙一 6:10)」と続ける。金銭を愛することが信仰を妨げるのであって、金銭そのものが妨げるのではないのである。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。 —マタイによる福音書 19:23-26 イエスの物質的な富を蓄えることに対する戒めは「善良な生活というものは清貧と博愛であり、地上ではなく天国の宝を貯める」ことを勧めている。 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。 —マタイによる福音書 6:19-21 イエスは追従者に罪を犯させるその生き方から抜け出すよう説いた。「もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、かたわになって命に入る方がよい。(マルコによる福音書 9:43-44)」 信仰の足かせとなる富への欲求や、所有欲といったものを捨て去るため、清貧の誓いを立てる信徒もいる。キリスト教には禁欲、博愛、喜捨といった自発的な貧困の伝統が長きに渡って存在する。何百万人もの人々が「偉大なる放棄」と呼ばれる、神の御名において性と富を放棄することを始めた点においてキリスト教は独創的である。 ローマ・カトリックにおいては富の放棄は「清貧、貞節、従順の誓い」(英: Evangelical counsels)のうちの一つある。一部の特定の教派では極端な清貧の誓いを立てる。例えば、フランシスコ会では前もって全ての個人的な財産を捨て去り、その後も共同体で財産の所有を行う。
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