保守主義の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:45 UTC 版)
独立後、フローレス政権はシエラのキトの寡頭支配層を支持基盤に専制政治を敷いたが、ペルー、ヌエバ・グラナダとの紛争や、国内での内戦が相次いだ。独立時のエクアドルは、現在のエクアドルの約4倍程の面積だったが、対外戦争により広大な領土が徐々に近隣諸国に併合されることになった。1832年にはヌエバ・グラナダ共和国との戦争に敗北し、カルチ川北部を割譲している。独立後もフローレスの独裁は続いたが、1845年3月に三月革命が勃発し、グアヤキル出身のビセンテ・ラモン・ロカが政権に就いた。しかし、反フローレス派の寄せ集めという感が拭えなかったこの革命はすぐに路線に迷い、以降フローレス派と反フローレス派の抗争が続いた。 1859年のペルーとの戦争(エクアドル・ペルー戦争 (1858年 - 1860年)(スペイン語版、英語版))が勃発し、ラモン・カスティージャ将軍の指揮するペルー陸軍がエクアドル南部を進撃し、ペルー海軍によりグアヤキル港が封鎖された。ギジェルモ・フランコ大統領はペルーにアマゾン地域の割譲を申し出るが、これにガブリエル・ガルシア・モレノが反発し、1860年にフランコは失脚した。 同年、シエラ出身の保守主義者のガブリエル・ガルシア・モレノがカトリック教会の支援の下、反ペルーを旗印にエクアドルを統一した。モレノが1861年に大統領に就任すると、エクアドル自由党はグラナダ連合に逃亡し、モスケーラ大統領の支援を受けてモレノに反撃すると、モレノは1862年に自由党を支援するグラナダ連合に宣戦布告し、ヌエバ・グラナダに侵攻したが、大敗を喫した。1862年にモレノ政権はバチカンとコンコルダート(政教協約)を結んでカトリックをエクアドルの国教に定め、モレノが制定した1869年憲法ではカトリック教会の公教育に対する特権が認められた。また、1864年にコロンビア合衆国の支援を受けて侵攻してきた元大統領のウルビーノを破った。モレノの親カトリック的な傾向はさらに進み、1873年の議会でエクアドル共和国は「イエスの聖心」に捧げられることになった。このように政治と教会の距離はモレノによって縮められたが、他方でモレノ時代には軍隊や鉄道、大学が整備され、多くの科学者や技術者がヨーロッパから招聘された。また、モレノは自由主義者が主張していたインディオの共有地を解体して私有地化し、インディオから土地を奪うことを拒否している。一方で、この時期にコスタでのプランテーション作物が主要産業になると、徐々にコスタの資本家が力をつけ、1867年にはグアヤキルにエクアドル銀行が設立されている。こうしてモレノを代表とするキト=シエラ(山岳部)の大土地所有者(保守主義)と、グアヤキル=コスタ(海岸部)の財閥(自由主義)の対立が進行した。1875年にモレノは再選したが、間もなく暗殺された。
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