作者は定房か否か
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正中元年事件の説明として、いわゆる「吉田定房奏上」という、後醍醐天皇側近「後の三房」のひとり吉田定房が著したという説がある文書が用いられることがある。この文書の著者が奏上した相手は、「亀山院」の子孫で「仙洞」(上皇)および「武家」と対立関係にあり、「兵革」で「草創」(武力による鎌倉幕府打倒と国の維新)を志す天皇である。無論、これは後醍醐天皇しかない。著者は、この「草創」(討幕による維新)の企ては時期尚早で敗北に終わるであろうと後醍醐に警告し、時運を待つように進言した。 河内祥輔の主張では、この文書の著者は定房ではない上に、正中元年事件ではなく、元弘の乱の時に書かれたものではないかという。河内は、年月日・作者不明の上に、厳密には奏上そのものではなくその覚書であるため、「(年月日欠)某奏上覚書」という呼び方が適当ではないか、としている。 奏上の原本は、覚書作成の時点から「去年六月廿一日」に後醍醐に提出された。通説では、この「去年」とは、元応2年(1320年)・正中元年(1324年)・元徳2年(1330年)説などがある(覚書の文書そのものはそれぞれの翌年に作成されたことになる)。 しかし、河内は、この年代特定には2つの問題点があるとしている。第一に、元応2年(1320年)説と正中元年(1324年)説は、正中元年事件が討幕計画であることを前提の一つとしているため、討幕説そのものを論じる時にはその信頼性が揺らぐことになる。第二に、これらの全ての説が、作者が吉田定房であることを前提としている。 村井章介の元応2年(1320年)説と佐藤進一の正中元年(1324年)説は、第8条の「革命の今時」という文言について、それぞれ辛酉革命と甲子革令(これらの干支の年には王朝を揺るがす事件が起きるという当時の迷信(讖緯説))を充てたものである。しかし、河内は、これは考えすぎであり、ここでいう「革命」は「国家草創」という以上の意味はないであろう、としている。 作者定房説は小野壽人・松本周二・村田正志らによって提示されたのが始まりであるが、その根拠は『吉口伝』に、定房は後醍醐天皇の「陰謀」を度々諌め、直言を何度も上げた忠臣であった等々と書かれており、奏上覚書の内容と一致することや、「草創の事」といった言い回しが類似している点が挙げられる。しかし、河内は、『吉口伝』は定房が作者の「候補」である有力な論拠にはなるとしても、他にも直言を上げる家臣がいた中で、なぜ特に定房のみに限定されなければならないのか疑問を呈した。
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