佐藤進一の宋朝皇帝型独裁君主説
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「後醍醐天皇」の記事における「佐藤進一の宋朝皇帝型独裁君主説」の解説
第二次世界大戦後、1960年代には、佐藤進一を中心として、後醍醐天皇は中国の皇帝を模倣した独裁者・専制君主であったという人物像が提唱され、建武政権についても、その政策は時代の流れや現実の問題を無視したものだったと否定的に評価された。佐藤進一の学説は定説として20世紀後半の南北朝時代研究の大枠を作り、こうした人物像や政権への否定的評価は、2010年代に入っても高校の歴史教科書(山川出版社『詳説日本史 日本史B』2012年など)で採用されるなど、高校教科書的な水準では定説としての地位は失っていない。しかし、後述するように、1990年代末からの新研究の潮流では複数の研究者から強い疑義が提出されている。 後醍醐天皇独裁君主説では、建武の新政の解釈と評価は、おおよそ以下のようなものとなる。 建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家たちの多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な二条河原の落書にみられるようにその無能を批判され、権威をまったく失墜した。
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