佐藤達夫説(1967年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:36 UTC 版)
考古学者である佐藤達夫は、文献史料に残される流鬼国の記述のみではカムチャッカ半島説、樺太説どちらにも大きな矛盾は見いだせないと述べ、考古学研究の成果を用いて流鬼国の位置を比定する手法を初めて提唱した。佐藤達夫は流鬼国そのものではなくその北方に住まうとされる夜叉国にまず注目し、史料上の夜叉国に関する記述と現代のエスキモー民族の風俗には一致する点が多いと指摘し、夜叉国=ベーリング海西岸地域の南に位置する流鬼国はカムチャッカ半島に位置すると述べる。佐藤達夫の説はカムチャッカ半島で出土する石像と北海道の網走で出土した石像が類似している=古来北海道とカムチャッカ半島に交流があったことから着想を得たもので、流鬼国の研究に考古学研究の手法を持ち込んだという点で画期的な論文であったが、1960年代は冷戦の真っ只中でソ連領の考古学研究は十分に進んでおらず、傍証史料に欠けると評されている。
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