伯仲国会と野党連携の模索とは? わかりやすく解説

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伯仲国会と野党連携の模索

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 05:11 UTC 版)

公明党」の記事における「伯仲国会と野党連携の模索」の解説

1970年前年総選挙大敗した日本社会党では、右派江田三郎主導で「社公民路線」が提唱され江田西欧型の社会民主主義目指す江田ビジョン」を提唱するが、マルクス・レーニン主義唱える左派との論争劣勢強いられる。それでも1972年第33回衆議院議員総選挙では、社公民三党で選挙協力行ったが、公明党言論出版妨害事件イメージなどが原因大敗喫す民社党議席減らし復調し日本社会党との連携がうまくゆかずに、社公民路線頓挫した1974年第10回参議院議員通常選挙では、野党各党は表向き全野結集方針掲げ公明党日米安保条約即時破棄訴えるなど、史上最も革新寄り主張選挙に臨む。結果狂乱物価によって自民党議席減らして伯仲国会実現させたものの、選挙後には一転して野党間で対立起こった翌年にかけて、創価学会共産党との間で相互理解などの交渉が行われ、1975年7月創共協定成立する。しかし、公明党支持者である創価学会員は、もともと革新的な日本共産党イデオロギーとは相反し党組織末端では協定対す動揺広がった党執行部は、創価学会による頭越し協定締結反発し協定解釈巡って日本共産党との批判合戦巻き起こる創価学会もこの論争加勢せざるを得ずあっという間に協定死文化してしまう。公明党10月党大会革新色を打ち消し日本共産党とは完全に袂を分かった1976年第34回衆議院議員総選挙自民党過半数割れとなって以降自民党からは中道政党に対して秋波送られるうになる1978年公明党大会で、竹入は自衛隊容認考え表明し政治路線については保守勢力との連携含み持たせた1979年四十日抗争では自民党主流派大平正芳から竹入に対して連立呼びかけもあったという。11月首班指名選挙では大平陣営から決選投票前に大平首班投票するよう依頼されるが、公明党決選投票棄権した一方で日本社会党は、右派指導者であった江田離党死去により左傾化弱体化兆し見せており、1980年社公民路線で臨む夏の参院選向けて社公連合政権構想締結された。ところがハプニング解散により、衆参同日選挙執行されることとなり、連携前提崩れた上、解散当初主流派反主流派分裂選挙様相見せていた自民党が、大平急死により対立解消する選挙では自民党圧勝し伯仲国会終わりを告げた選挙後新たな政権構想では政権特徴として「反自民政権」を削除し本格的に自公民路線へと舵を切った

※この「伯仲国会と野党連携の模索」の解説は、「公明党」の解説の一部です。
「伯仲国会と野党連携の模索」を含む「公明党」の記事については、「公明党」の概要を参照ください。

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