仙台開府と慶長遣欧使節とは? わかりやすく解説

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仙台開府と慶長遣欧使節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 13:00 UTC 版)

伊達政宗」の記事における「仙台開府と慶長遣欧使節」の解説

関ヶ原の戦いの後、徳川家康許可得た政宗慶長6年1601年)、居城仙台移し城と城下町建設始めた。ここに伊達政宗藩祖とする仙台藩誕生した石高62万石加賀藩前田氏薩摩藩島津氏および福井藩越前松平家に次ぐ全国第4位である(1623年松平忠直失脚による福井藩再編後全国3位となった)。徳川幕府からは松平名字与えられ松平陸奥守」を称した仙台城山城天然地形利用した防御であるものの、仙台城下町全面的な開発であるため、のべ100万人を動員した大工事となった。藩内の統治には48ヶ所の館を置き家臣配置した政宗仙台藩エスパーニャとの通商太平洋貿易)を企図し、慶長18年1613年)、仙台領内において、エスパーニャ国王フェリペ3世使節セバスティアン・ビスカイノ協力によってガレオン船サン・ファン・バウティスタ号建造した政宗家康承認を得ると、ルイス・ソテロ外交使節任命し家臣支倉常長一行180余人ヌエバ・エスパーニャメキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した慶長遣欧使節)。 慶長8年1603年以降幕臣との交際多くなる幕臣への接近情報収集一端であり、さまざまな贈答品心を砕いたり、酒宴歌会茶会能見物等に懸命であったりした。 慶長18年1613年)に高田城普請のために越後国にいた政宗から愛姫送った書状には、春秋季節感天然自然草木花鳥風月について、仏教無常感土台語りかけている。『枕草子』や『徒然草』が引用され『源氏物語』の「花宴」の一句締めくくるなど、その文言高尚である。夫婦仲疎遠どころか複雑な心象伝え間柄であったことが分かる

※この「仙台開府と慶長遣欧使節」の解説は、「伊達政宗」の解説の一部です。
「仙台開府と慶長遣欧使節」を含む「伊達政宗」の記事については、「伊達政宗」の概要を参照ください。

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