他の外国人居留地との比較
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:53 UTC 版)
「神戸外国人居留地」の記事における「他の外国人居留地との比較」の解説
居留地の面積(居住面積)を比較すると、横浜・長崎に次ぐ3番目で、横浜の約1/7、長崎の約1/2ほどである。ただし厳密には横浜は2つ(横浜(関内)・山手)、長崎は8つ(大浦・下松・梅ヶ崎・出島・新地・広馬場・東山手・南山手)の居留地の集まりである。横浜については横浜(関内)(129374坪)・山手(218823坪)ともに単独でも神戸の面積を上回っているが、長崎については最も広い南山手(44140坪)でも単独では神戸を下回る。雑居地の面積(居住面積)は横浜・築地に次ぐ3番目である。 神戸では居留地が雑居地よりも広いが、築地と函館では逆に雑居地が居留地よりも広い。その要因としてはまず築地の場合、そもそも居留地が通商・貿易のための居住地であるところ、近在する貿易拠点である横浜ではなく築地に敢えて住もうとする商人が少なかった上に、勤務地に近い雑居地に住みたいという外交官やお雇い外国人が数多くいたことが挙げられる。また、函館では居留地に設定された土地の条件が悪かったためにほとんどの居留外国人が雑居地に居住した。 居留外国人数を見ると、居留地の面積が神戸よりも広い横浜は1893年(明治26年)の時点で4946人、長崎は明治元年(1868/1869年)の時点で938人、居留地が返還された1899年の時点では1711人である。築地は神戸に次ぐ規模を持ち、雑居地の面積では神戸を上回っていたが、居留地および雑居地の外における不正居住が横行し、居留地および雑居地における外国人数は1871年(明治4年)9月の時点で72人、1877年(明治10年)の時点で97人にとどまった。 各居留地の面積 (1885年(明治18年)末) 単位:坪居留地名横浜長崎函館築地神戸川口居留地面積(居住地のみ) 348197 105787 1730 26162 49645 7747 雑居地面積(居住地のみ) 36216 2973 13216 33323 26756 3578 神戸と横浜は、共に明治における対外的な窓口として発展した。しかし神戸では日本側と外国側との関係が概ね良好であったと評価されているのに対し、横浜では日本人商人が不平等な商慣行に抗議して外国商人との取引をボイコットする騒動(内外商紛議)が毎年のように発生するなど、日本人と外国人の関係が最も険悪であったとされる。このような差が生じた要因としては、神戸では開港が横浜よりも8年あまり遅れたため、その間に日本で活動する悪質な外国商人が淘汰され、さらに日本人と外国人が互いについて理解を深める時間が得られたという「後発者のメリット」が指摘されている。 一方、開港場が決まった経緯では神戸と横浜の間に共通点がある。前述のように江戸幕府は安政五カ国条約において取り決めた「兵庫開港」について、兵庫津ではなく後の神戸港を外国に開放した。横浜居留地に関しても同様の動きがあり、江戸幕府は「神奈川開港」について神奈川宿ではなく当時寒村であった横浜村を開放した。「兵庫開港」では外交上のトラブルは生じなかったが、「神奈川開港」では江戸幕府が神奈川宿の開放を強く求める外国側を押し切って横浜村の整備を進め、結果的に横浜村近辺のほうが神奈川宿近辺よりも水深が深く港に適した地理的条件を備えていることが判明したため外国側が江戸幕府の決定を追認したという経緯がある。
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