仕官後嘉永6年まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 00:14 UTC 版)
仕官後間もなくだと思うが戸田忠敞の仲人で、水戸の碩学会沢正志斎の三女と結婚した。正志斎は幕末の日本に大きな影響を与えた有名な学者で、改革派の理論的指導者だったから帆平もその影響を受けたと思われる。 仕官後3年半ほどたった弘化元年(1844年)藩主斉昭が幕府から叱責を受けて隠居・謹慎を命じられるという大事件が発生した。 心ある藩士とともに帆平も藩主の雪冤運動に係わって、無断で江戸表まで出かけて行った。これを咎められて藩から4年半に及ぶ逼塞・遠慮という罰を受けた。縁者でもある帆平の墓碑銘の撰文者はこのおかげで「日夜研精し頗る大義に通ずるを得」たとしている。以前の帆平から脱皮する機会になったのかもしれない。 嘉永4年(1851年)から翌5年(1852年)にかけて吉田松陰が東北地方を旅行した折には水戸の会沢正志斎宅で帆平に会っている(嘉永5年1月14日)。嘉永6年(1853年)6月、マシュー・ペリーの来航に当たって帆平は浦賀に赴き、交渉に当たった与力から貴重な聞き書きをとった。帆平の名を付した聞き書きは東京大学史料編纂所に「浦賀異船始末」として、また、鹿児島大学附属図書館の玉里文庫に「海防名応接記」として残されている。いずれも薩摩藩関係の文書である。筆者名を明らかにしていないがほとんど同じ内容の、元は同じと思われる資料がいくつか出回っているらしい。「海保帆平記」を疑う説もあるようだが「浦賀異船始末」の末尾の「海保帆平大胡聿蔵再度浦賀表発足而聞書之」から判断し、事実に則したものと思われる。ただし、水戸関係にこれを裏付ける資料はないようだ。[要出典] 帆平が浦賀に赴いたのは、戸田忠敞が、幕府の海防参与となった斉昭の許で海岸防禦御用掛となったことと関係あるのかもしれない。翌安政元年(1854年)江戸詰となったことについても浦賀での働きと関連があるのかもしれない。[要出典]
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