仕官・通事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 14:24 UTC 版)
帰国の3年後、招聘されて薩摩藩主島津家久に仕えた(寛永6年(1629年)に長崎に帰来。翌年に薩摩に行くと示現流開祖の東郷重位に発見されて中国に行っていたことが発覚。重位より藩主島津光久に伝えられて取り立てられ、一覧という名を賜った、ともいう)。 寛永18年(1641年)、長崎奉行所の小通事となり、2年後には大通事となった。大誦を通事に推挙したのは、長崎在住の儒医・陳明徳(潁川入徳)で、長崎奉行から薩摩藩主に書状が送られ、薩摩を離れて通事職に就いたという。なお、大誦は先祖が渤海郡に発すること(あるいは渤海王であること)にちなんで「渤海久兵衛」と称していたが、読まれにくいとして、通事となったころに同じ読みの「深見」に改めた。 慶安2年(1649年)47歳のとき、4男高玄岱(深見玄岱、深見新右衛門貞恒)が誕生。玄岱は儒官として江戸幕府に仕えた。 万治2年(1659年)に引退するまで約20年に渡り通事の職にあった。
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