仕手戦の敗北、終焉
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「クック・インダストリーズ」の記事における「仕手戦の敗北、終焉」の解説
1976年冬。翌年秋の大豆の在庫増による値下がりを見込んで「売り」の指示を出したが、予想より収穫量が少なくかつ輸出が好調であったため、価格は上昇した。1976年度(1976年9月1日〜1977年8月31日)の第1四半期には1350万ドルの赤字を計上。第2四半期は70万ドルの赤字でとどまったが、第3四半期には再び1300万ドルの赤字を計上した。1977年の2月中、スパークスは売りの指示を出し続けたが、これと反対に買い注文を出し続ける者がいた。当時、クック社はこの投資家の正体を把握できていなかった。スパークスは値下がりが始まると見込んでいたが、強力な買い注文により相場は容赦なく上昇を続けた。この投資家こそ、テキサスの石油王ネルソン・バンカー・ハントであった。大豆の投機取引は300ブッシェルまでと制限されていたが、弟や家族と組み、限度いっぱいの2100ブッシェルを買いつけた。これはトンに換算すると57万1500トンで、同年収穫した大豆が出回る前の在庫量の3分の1に相当する量であった。クック社側は、実物の大豆を入手して、買い注文に対して送りつける作戦に出た。大量の実物の大豆が届いても始末に負えず、買い注文を手控えると考えたからだ。ところがハントの側はすでにカントリーエレベーターの中にある大豆を押さえてしまっていた。クック社はシカゴ商品取引所から追加証拠金を求められたが、銀行からの借入金は1977年5月までに限度額の上限に達した。すでに2月にはELブルース社、4月には最新鋭のカントリーエレベーターを売却しており、為す術はなかった。6月1日。クック社は証券取引所に自社の株式の売買停止を要請。大幅に事業を縮小し、資産の大半を売却することを発表した。第4四半期の赤字は6000万ドルに達し、スパークスは辞職した。こうして、世界有数の穀物メジャーであるクック・インダストリーズは、わずか1年の間に終焉を迎えることとなった。
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