仏教界への貢献
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「アナガーリカ・ダルマパーラ」の記事における「仏教界への貢献」の解説
ダルマパーラが若い頃、彼はオルコットの通訳として活動した。またブラヴァツキー夫人と親しくなり、彼女はダルマパーラにパーリ語と仏陀の教説を学ぶよう助言した。 1891年、ダルマパーラはインドにあるブッダガヤの大菩提寺を巡礼した。そこで彼は寺院がシヴァ派の手中にあり、ブッダがヒンドゥー教のアイコンに変えられてしまっていることを知った。衝撃を受けた彼はその後、ブッダガヤを仏教徒の手に取り戻す運動を始めた。 同年、コロンボに大菩薩会(英語版)が設立されたが、翌年に事務所はカルカッタへ移転となった。その主な目標はブッダガヤの大菩提寺を仏教徒の手に取り戻すことであった。これを実現するため、ダルマパーラは現地のバラモンに対して訴訟を提起した。この活動は非常に困難を極め、実際に大菩薩会による管理が実現したのは1949年でダルマパーラの死後16年経ってからであった。その後、ブッダガヤの管理はヒンドゥー教徒と仏教徒が同数ずつ選出された委員会によって行われている。 大菩薩会の支部はインド国内の多数の都市に置かれ、これがインド人の仏教理解に変革を与えた。その後のインドにおける仏教徒の増加は主に教育によるものであったが、インド南部の下層カーストにおける増加も一定数あった。 また彼は、釈尊入滅の地とされるクシナガラ参拝を仏教徒の間で復活させた。1890年代の大菩薩運動は、イスラム教徒による支配がインドにおける仏教の衰退に影響したと捉えていた。ダルマパーラも仏教の衰退に関するイスラム教徒の影響を批判した。 1893年、ダルマパーラはアメリカ合衆国のシカゴで開催されたシカゴ万国宗教会議(英語版)に上座部仏教代表として招待された。そこで彼はヴィヴェーカーナンダと出会い、彼と同様に万国宗教会議で大成功を収めた。ダルマパーラは30歳までに世界的に有名となっており、その後の40年は世界中に精舎設立活動を行っていた。同時期に彼はセイロンで学校、病院を複数設立し、インドで寺院や精舎を建立した。彼が建立した最も有名な寺院はブッダが初めて教えたサールナートにある。 またハワイ経由でインドに帰る際にカメハメハ1世の子孫であるメアリー・E・フォスターと出会い、彼女の悩みに仏教的観点から答えた。そのお返しにフォスターは100万ルピー(2010年時点で2700万米ドル相当)以上の寄附金をダルマパーラに贈った。 また彼は数多くの日記を残し、それらの多くが出版されている。
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仏教界への貢献
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熱心な仏教徒であり、1950年代に名古屋市の日泰寺の管長の勧めで世界平和観音会を設立。全世界に観音菩薩の教えを広げようという趣旨で中国やインドなど約30カ国に観音像の寄贈を行ってきた。1975年には34体目の観音像をフィリピンへ寄贈し満願を達成した。1970年代後半には日泰寺と総持寺(横浜市)の信徒総代を務めたほか、観音の総本山として熱海市姫の沢公園に金閣寺を建設しようとしたが、こちらは達成されなかった。
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