人形町末廣とその周辺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 02:31 UTC 版)
1657年(明暦3年)に吉原遊廓が移転し、天保の改革で芝居小屋が移転して以降、商業地として発展した人形町に1872年(明治5年)水天宮が移転して来た時にはかつての繁華街・歓楽街の面影は薄く、高額の遊興費を必要とする芳町の花街は大衆を牽引して来る力とはなり得なかった。新しく出来た門前町に徐々に繁華街としての体裁が整えられて町全体の客足は順調に伸びていったが、東京における明治から大正期の寄席興行は、市内に多数の寄席が存在していたために多くの場合は外来の客目当てと言うよりは住人のための娯楽だった。 当時の人形町近辺は大小の問屋・商店が立ち並び、店主と家族、住み込みの従業員等で人口密集地帯であった。近隣を流れる日本橋川に架かる日本橋西南岸には関東大震災で壊滅するまでは魚河岸が控えており、さらに日本橋兜町には東京株式取引所が設置されて個人商店を含む大小の証券会社が開業した。増加した居住者に娯楽を提供するべく明治期には人形町に寄席が複数存在していた。『末廣亭』(のちの人形町末廣)、『大ろじ』、『鈴本亭』、『喜扇亭(浪曲席)』である。 『大ろじ』は1階が住居で2階が寄席になっており、晩年の三遊亭圓朝が牡丹灯籠を連続口演するなど当時の東京で指折りの寄席であったが建物が老朽化したため1907年(明治40年)前後に閉場し、『大ろじ』閉場後に同じ席亭が『鈴本亭』を開場して経営していた。『鈴本亭』は大森館という活動写真館の跡地に明治末期に開場した当時の東京で屈指の客の来る寄席で、客席は1階に加えて2階席もあり常時500〜600人の客数が押し寄せて満員になっていた。隣町の日本橋久松町には明治座も開場しており、近隣は明治期に芸能が盛んになった土地であった。 関東大震災で『鈴本亭』が閉場、『喜扇亭』は戦後は浪曲に加えて漫才等の色物席として存続するが1952年(昭和27年)頃に閉場し、『人形町末廣』1軒が孤塁を守った。
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