二子玉川凧凧
作 者 |
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季 語 |
凧 |
季 節 |
春 |
出 典 |
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前 書 |
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評 言 |
「ふたこたまがわいかのぼりいかのぼり」の十七音。れっきとした俳句である。 かつて多摩川を挟んで川崎市側にあった「二子村」と世田谷区側の「玉川村」を合わせ付けられた地名故に、歴史を感じさせる雰囲気の中で、これもかつて多摩川の河川敷で賑わった名物の凧上げが眼前にある。意表を突いた六文字で時空を超え得た企てに、にやりとする作者の顔が見えて来る。佳句である。 ある年の「鷹」の句会で、上五・中七が「凧凧凧凧凧凧や」という句が出句され、小林の印象に残っていた。その後偶然通りかかった二子玉川駅から子供たちの凧上げを見たときに、印象に残っていた「凧凧」のリフレインと駅名が合わさって掲句が誕生したという。いかにも言葉に拘る作家ならではのエピソードであり、本歌取りの原則も立派に踏まえている。 感性の作家である。措辞の魔術師とも言い得る。宮坂静生は彼女の世界を「典雅と軽快、剛と柔、知性と感性とでもいうように対照的な句群を合わせ持つ」と言う。カオスそのものの中に躍動する女性(にょしょう)とでも言うのだろうか。 今夏、彼女の「飯島晴子」論を聞く機会を得たが、そこで語られたのは、ついには自裁せざるを得なかった飯島晴子の措辞との格闘模様であった。かつて俳誌「鷹」で切磋琢磨し合った小林故にその論は正鵠を射、重厚かつ的確なものであった。だが、正直そこまでやるかという空恐ろしい印象が残ったのも事実である。 翻って小林に関する限りは、飯島のジレンマからは自由であるように思えてならない。カオスのなかで措辞を自在に操っている趣を感じるのは私だけではあるまい。 それは言ってみれば「ナイーブ」のなせる技ではないか。私にはそう思えてならない。 彼女の第三句集の名は『紅娘』。てんとう虫のことである。小学五年生の時、あることを切っ掛けに自身の象徴を天道虫と決め、以降これを守ってきたという。この純真さこそが、彼女の本質ではないか。 彼女の辞世は従って、これから詠まれるであろう「紅娘」の一句であることは間違いないであろう。年齢故に、私がその句を見ることは出来ないであろうことは誠に残念なことではある。 写真は多摩川河川敷: galavy.fc2web.com |
評 者 |
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備 考 |
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