二代目のころ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 07:37 UTC 版)
1909年(明治42年)に「伊東胡蝶園」に商号変更した。1911年(明治44年)2月23日、初代伊東栄が死去、1873年(明治6年)8月生まれ、慶應義塾、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した長男・謙吉(1873年 - 1929年)が二代目伊東栄を襲名、社長に就任する。1916年(大正5年)12月22日、薄田泣菫が『大阪毎日新聞』夕刊に連載していた『茶話』の第211話『狂人の書』に登場している「伊東玄朴の孫」とは、二代目のことである。 1916年(大正5年)に同社は、出版社「玄文社」を設立、主幹に結城無二三の長男で元『國民新聞』記者、元『東京毎夕新聞』主幹、元『帝国新聞』主幹の結城禮一郎を採用した。玄文社は『新演芸』(主筆岡村柿紅)、『新家庭』、『花形』、『詩聖』といった雑誌を発行、多数の書籍を出版した。同社の編集者には鈴木泉三郎、長谷川巳之吉、仲木貞一、内山佐平、服部普白、堀川寛一、小林徳二郎らがいた。同社は、1926年(大正15年)ごろ廃業している。 1921年(大正10年)「御園コールドクリーム」を発売、1925年(大正14年)、丸見屋との総代理店契約を解消し、伊東胡蝶園が販売も行う。同年「御園コンパクト」を発売。1926年(大正15年)、「新御園白粉」を発売した。 1929年(昭和4年)7月28日、二代目伊東栄が57歳で死去する。1934年(昭和9年)7月、三代目伊東栄が『父とその事業』(伊東胡蝶園)を執筆、同社が発行した。 同社が無鉛白粉を始めて30年、無鉛はすっかり主流になり、1930年(昭和5年)に有鉛白粉の製造禁止、1934年(昭和9年)に販売禁止となり、無鉛白粉の競争が激化する。このころ洋画家の佐野繁次郎が入社、「パピリオ」のロゴデザインを手がけた。同時期、のちの『暮らしの手帖』編集長、花森安治が宣伝部に入社、佐野に師事した。1933年(昭和8年)、「御園つぼみ白粉」を発売、1935年(昭和10年)、「パピリオ白粉」発売、「パピリオ」ブランドがスタートする。1936年(昭和11年)には「パピリオ口紅」を発売した。
※この「二代目のころ」の解説は、「伊東胡蝶園」の解説の一部です。
「二代目のころ」を含む「伊東胡蝶園」の記事については、「伊東胡蝶園」の概要を参照ください。
- 二代目のころのページへのリンク