中部日本新聞社と豊田自動織機製作所とは? わかりやすく解説

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中部日本新聞社と豊田自動織機製作所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 17:29 UTC 版)

大府飛行場」の記事における「中部日本新聞社と豊田自動織機製作所」の解説

戦後飛行場一部農業開拓者農場転換されたが、残り土地三菱重工所有のまま放置されていた。(1948年当時大府飛行場付近航空写真出典国土地理院地図空中写真閲覧サービス1952年昭和27年2月になり、組立工場等が集中していた地区豊田自動織機製作所(後の豊田自動織機)が大府町あっせん買い受けた同社では農業機械試験場APA特需車両完成車置き場として利用していたが、昭和40年代になり、長工場としてパブリカバンの生産基地となったその後も長工場は、スターレット・ヴィッツ等の生産続けている。 同じく1952年昭和27年)、中部日本新聞社(後の中日新聞社)が6月1日、「中日大府飛行場」を開設した。同新聞社によると、当時民間空港第1号宣伝された。 面積23万平メートル滑走路長450mであった滑走路とはいっても元の大府飛行場一角ならしただけで、ラバウル基地よりひどいといわれたが、それでも当時自前飛行場はここしかなかった。 同年8月15日、かつて大府飛行場生産されていた「飛竜」と同じ名前を与えられ水陸両用機飛竜」(リパブリック RC-3 シービー)と、「白鳩」(パイパー PA-20)の2機からスタートした1952年昭和27年11月ベル 47D型3人乗りヘリコプター大府飛行場到着。後に同機川崎重工引き取られ国産ヘリコプター第1号開発のための技術調査一役かった。 1953年昭和28年2月中日社機「飛竜」が、滑走路東側土手激突乗員2人重傷となる事故発生1958年昭和33年7月中日大府飛行場閉鎖中日機は名古屋空港移った1958年昭和33年以降、かつての滑走路跡新日本製鐵名古屋製鐵所(現:新日鐵住金名古屋製鐵所)の社宅中心に市街地化した。また滑走路跡の上知多半島道路高架またがり一見しただけでは、かつてここに飛行場があったことがわからなくなってしまった。道路付近には、ミニストップファミリーマートバローセブン-イレブンなどが立ち並ぶ滑走路跡一部道路ともなったが、幅員大幅に減っている。 丘陵地わりには不自然に平坦な地形が、唯一飛行場であったことを示すものであろうまた、飛行場にはかつて大府駅から専用側線敷設されていて、1970年代ころまではその跡が明瞭に残っていたが、その後市街地化著しくなり、一部道路として残っているらしいが、その跡が極めてわかりにくくなっている。

※この「中部日本新聞社と豊田自動織機製作所」の解説は、「大府飛行場」の解説の一部です。
「中部日本新聞社と豊田自動織機製作所」を含む「大府飛行場」の記事については、「大府飛行場」の概要を参照ください。

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