中部日本新聞社と豊田自動織機製作所
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「大府飛行場」の記事における「中部日本新聞社と豊田自動織機製作所」の解説
戦後、飛行場の一部は農業開拓者の農場に転換されたが、残りの土地は三菱重工の所有のまま放置されていた。(1948年当時の大府飛行場付近の航空写真。出典:国土地理院地図・空中写真閲覧サービス) 1952年(昭和27年)2月になり、組立工場等が集中していた地区を豊田自動織機製作所(後の豊田自動織機)が大府町のあっせんで買い受けた。 同社では農業機械の試験場、APA特需車両の完成車置き場として利用していたが、昭和40年代になり、長草工場としてパブリカバンの生産基地となった。 その後も長草工場は、スターレット・ヴィッツ等の生産を続けている。 同じく1952年(昭和27年)、中部日本新聞社(後の中日新聞社)が6月1日、「中日大府飛行場」を開設した。同新聞社によると、当時、民間空港第1号と宣伝された。 面積23万平方メートル、滑走路長450mであった。 滑走路とはいっても元の大府飛行場の一角をならしただけで、ラバウル基地よりひどいといわれたが、それでも当時自前の飛行場はここしかなかった。 同年8月15日、かつて大府飛行場で生産されていた「飛竜」と同じ名前を与えられた水陸両用機「飛竜」(リパブリック RC-3 シービー)と、「白鳩」(パイパー PA-20)の2機からスタートした。 1952年(昭和27年)11月、ベル 47D型3人乗りヘリコプターが大府飛行場に到着。後に同機は川崎重工に引き取られ、国産ヘリコプター第1号開発のための技術調査に一役かった。 1953年(昭和28年)2月、中日社機「飛竜」が、滑走路東側土手に激突、乗員2人が重傷となる事故が発生。 1958年(昭和33年)7月、中日大府飛行場閉鎖。中日機は名古屋空港に移った。 1958年(昭和33年)以降、かつての滑走路跡は新日本製鐵名古屋製鐵所(現:新日鐵住金名古屋製鐵所)の社宅を中心に市街地化した。また滑走路跡の上を知多半島道路の高架がまたがり、一見しただけでは、かつてここに飛行場があったことがわからなくなってしまった。道路付近には、ミニストップやファミリーマート、バロー、セブン-イレブンなどが立ち並ぶ。 滑走路跡は一部道路ともなったが、幅員は大幅に減っている。 丘陵地のわりには不自然に平坦な地形が、唯一飛行場であったことを示すものであろう。 また、飛行場にはかつて大府駅から専用側線が敷設されていて、1970年代ころまではその跡が明瞭に残っていたが、その後市街地化が著しくなり、一部が道路として残っているらしいが、その跡が極めてわかりにくくなっている。
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