中欧版ベネルクス構想、王党派による同君連合構想
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「ドナウ連邦構想」の記事における「中欧版ベネルクス構想、王党派による同君連合構想」の解説
戦後、オーストリア第一共和国初代首相を務めたカール・レンナーがオーストリアを再建した。レンナーはドナウ連邦論者として知られていたが、構想は実現しなかった。ハンガリーやチェコスロバキアは次々と共産主義国家となっていき、冷戦の時代に突入したのである。ヨーロッパは鉄のカーテンによって西欧と東欧の二つに分断され、「中欧」という地域区分は意味をなさなくなった。 しかし冷戦終結後の1990年代になって、中欧という概念が急速に復活した。1991年2月15日にポーランド・チェコスロバキア・ハンガリーの旧「東欧」三国がヴィシェグラード・グループを結成したことは中欧地域の結合計画の萌芽といえたが、チェコスロバキアのビロード離婚によってこの試みは中断された。そもそも中欧諸国には、中欧という地域レベルでの結合よりもヨーロッパ共同体への参加への関心のほうがより強くあり、2016年現在ではすべての中欧諸国がヨーロッパ連合への加入を果たしている。 現在においては、ハプスブルク家のもとで培われた600年以上の共通の歴史を背景として、中欧諸国の集合体を組織してEUにおいてより大きな存在感を発揮しようとする主張が根強くあり、オーストリア首相(当時)のヴォルフガング・シュッセルが「中欧版ベネルクス」を作って英独仏などのEUの大国に対抗しようと提唱したこともある。構想の仕掛人であるオーストリア政界関係者は「いずれチェコなども拡大EUの中で小国の悲哀を知り、中欧諸国の大同団結の必要性をわかってくれるだろう」と語ったが、いまだ具体的な形にはなっていない。 また、オーストリアのシュヴァルツ=ゲルベ・アリアンツやチェコのチェコ・コルナなど、ハプスブルク家を共通の君主として戴く同君連合を樹立しようという王党派政党もいくつかある。2017年現在、これらの政党はいずれも弱小政党にとどまっている。しかし、度重なるEUの難民政策で国内問題が多発、中央銀行を抑えたドイツ中心の経済政策によりEU参加国が不利益を被り、発言権が低い中欧で新連邦思想が生まれた。カール・フォン・ハプスブルクを中心に騎士団が復活し中欧各国の要人が入団し新たな連邦結成に向けた動きが始まっている。また、各国国内でも連邦結成の動きが見え始めている。
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