中欧諸国のルネサンス建築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 04:23 UTC 版)
「北方ルネサンス建築」の記事における「中欧諸国のルネサンス建築」の解説
ハンガリー王国、モスクワ大公国、ポーランド王国、オーストリア公国などの中欧諸国は、西ヨーロッパの国々に比べるとルネサンス建築の導入はずっと早く、特に1458年から1490年にわたるマーチャーシュ1世治下のハンガリー王国では、豊かなルネサンス芸術が花開いた。 マーチャーシュはブダの王宮にイリアから石工や彫刻家を招き、多くの仕事をさせたことが、ブダ城やヴィースグラード城の発掘により証明されている。マーチャーシュの後を継いだボヘミア王ウラースロー2世もまた、ルネサンス建築を取り入れ、1506年にエステルゴム大聖堂のバコーツ礼拝堂を起工する。この建築は、平面も装飾においてもルネサンス建築として成立しているものであった。彼はプラハの宮廷にもルネサンス建築を取り入れ、プラハ城のウラディスラフ・ホールや、クラクフのヴァヴェル城の増築部分に古典的なモティーフをちりばめた。ヴァヴェル大聖堂のジギスムンドの霊廟は、フィレンツェ出身の建築家が起用され、ルネサンス建築として建設されている。 しかし、マーチャーシュ、ウラースロー2世の死後、ハンガリー王国は急速に衰え、1526年のモハーチの戦いで決定的敗北を喫すると、その領土の大部分をオスマン帝国に奪われてしまった。この結果、ハンガリー王国でのルネサンス建築の活動も衰退する。 マーチャーシュに召還された技術者たちのひとりロドルフォ・ディ・フィオラヴァンティは、イヴァン3世に招かれてモスクワ大公国に赴き、モスクワにおいて1475年にウスペンスキー寺院を、1504年頃にサンクト・ミハエル大聖堂をそれぞれ起工した。しかし、これらの建物の平面計画そのものには手をつけず、伝統的なビザンティン建築の要素は完全には放棄されなかった。クレムリンの造営には、マルコ・ルッフォやピエトロ・ソラーリ、アルヴィン・ヌヴォら他のイタリア人建築家も参画し、グラノヴィータヤ宮殿のほかアルハンゲリスキー寺院の建設が行われていたが、設計方法はよく似たものであった。
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