中東の鎧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 15:44 UTC 版)
サーサーン朝の重装騎兵 1450年頃のイランの重装騎兵 オスマン帝国のマムルーク オスマン帝国の鎖帷子 1400年 中近東における原始的な鎧の一つは、鰐の皮を利用した防護服だった。紀元前3,000年から紀元前1500年ごろのエジプトに出現した統一国家の兵士は鎧を着こむことは少なく、腰巻と日よけのための被り物を身に着けているだけだった。紀元前2550年から紀元前2350年にかけて存在したシュメール人の戦士は青銅製の兜をかぶり、動物の毛か植物の葉でできた腰蓑と鋲が打たれたマントを身に着けており、腰蓑はかさばっていることである程度の防御力を持ち、大きなマントは急所である胴体への狙いをつけづらくする働きがあったとされる。金属製の兜は主力武器の一つであった鎚鉾や手斧による攻撃を防ぐことができた。 民族移動や交易により加工技術が発達するとエジプトではメソポタミア文明でも使用された戦闘馬車が用いられ始め、一部の兵士は革を煮固めた鎧を着こむようになる。また戦闘馬車に乗った兵士は徒歩で移動する必要性が薄かったため、丈の長い小札鎧を着こむ場合もあった。メソポタミアで勃興したアッシリアの兵士はドングリ型の鉄兜を身に着け、円形の胸当てを付けたが一部の兵士は小札鎧を身に着ける者もいた。 紀元前559年から紀元前330年ごろのアケメネス朝ペルシャの軍隊の騎兵は金属製の鎧を身に着けていない軽装騎兵が主力をなしており、鎧を装備していたのは王の親衛隊などの一部の部隊のみだったが彼らは乗り手だけでなく馬もスケイルアーマーで装甲化した重装騎兵である。 ローマ帝国と敵対することもあったパルティア王国やその後代わりに現れたササン朝ペルシアの軍も同様の編成だったが、その中の重装騎兵であるカタフラクタイは全身を覆う鎖帷子の上に小札鎧を重ね着していた。カタフラクタイは馬上槍やメイス、刀剣などで武装しており、この重装騎兵の突撃に耐えうる装備がなかったローマ軍は戦列を組んで対抗する場合が多かった。以降、中東地域では主に鎖帷子やその上にラメラーアーマーないしスケイルアーマーを重ね着するか、板金で補強した鎖帷子を使用していくが、アジア文化の影響が強かった地域では純粋なラメラーアーマーを着込んだ。 中世の終わりまで、ヨーロッパとは異なりプレートアーマーが使用されることはなかったが、これは中東ではアジア系民族の影響により機動力を重視したためであり、馬上試合もなかったため板金で構成された固い兜の必要性は薄く、頭部こそ板金だが首周りは通気性の良い鎖帷子で構成されている兜を好んだ。
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