中尊寺貫主時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 06:17 UTC 版)
僧侶としては、1964年春、エジプトからヨーロッパ各国巡錫の旅では、4月28日、バチカン市国ローマ法王庁にて、教皇パウロ六世に謁見、バチカン放送局の放送機材を松下幸之助が寄贈したこともあって日本人初の放送を行った(伝)。1965年11月、僧正となり、1966年5月中尊寺貫主に晋山、国宝金色堂の昭和大修理に努めた(1968年5月、落慶大法要執行)。谷崎潤一郎、川端康成、梶山季之の死去に際しては戒名を贈り、葬儀の導師を勤め、弔辞を読んだ。同じ天台宗僧侶である弁慶を描いた『武蔵坊辨慶』は、参議院議員活動による中断を挟んで1964-65年、及び76-77年に新聞連載されたが、死去により未完。また両親が津軽出身であることから自らを蝦夷の末裔「東夷ノ沙門(とういのしゃもん)」と称し、平泉・中尊寺を創建した奥州藤原氏を描いた歴史小説『蒼き蝦夷の血 藤原四代』を1970年から執筆するが、藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡の三代までを描いたところで死去したため、未完となっている。1973年11月の瀬戸内晴美の中尊寺での出家得度に際しては、師僧となり「春聽」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。 1968年には参議院議員選挙全国区に自由民主党から立候補、当選し1期務めた。選挙時には川端康成が選挙事務長となって運動に協力、街頭で応援演説も行った。議会での最初の発言は「自衛隊は人を殺すのが商売なのだから、安心して殺せ」であり、型破りな性格と発言はつとに有名だった。「毒舌説法」でテレビや週刊誌でもコメンテーターとして人気があり、1973年からは週刊プレイボーイの過激な人生相談「極道辻説法」でも知られた。生来の「喧嘩屋」でその特異な人物像から各界に多大な影響を及ぼしたため梶原一騎や笹川良一と並び少々の誇張も含め「昭和の怪人」として評されることが多い。
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