世界的有名人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 01:22 UTC 版)
ピエトリの頑張りはスタジアムにいた観客を感動させた。メダルを失った代償として、アレキサンドラ王妃は彼に銀のカップを授与することとし、大会の医師として協力していた作家のアーサー・コナン・ドイルは授与式を提案した。さらにドイルは金のシガレットケースをピエトリに贈っている。一説によれば、ドイルはゴール地点でメガホンをもって応援していたという。 そしてピエトリは世界的な有名人となった。作曲家のアービング・バーリンからは「ドランド」という歌をプレゼントされ、また、アメリカで行われるエキシビションレースに参加するよう求められた。1908年11月にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、ヘイズとピエトリが対決するレースがセットされた。このレースではトラックを回って42.195キロを目指す大変なものだったがそれでもなおピエトリが勝ち、結果的にはピエトリの勝利を決定付けた。その後また同じようなレースが翌年の3月にも行われている。ピエトリは、アメリカでの興行で行われた22レース中17回で勝利した。 ピエトリは、1909年5月にイタリアに戻り、プロのランナーとして活動した。そしてさらに2年間外国で活動した。彼の最後のマラソンは、1910年5月にブエノスアイレスで行われたレースで、ここで2時間38分48秒2の自己ベストを達成している。なお、彼は現役生活中に合計17回マラソンに出場し、優勝8回、2位1回、6位1回、棄権6回、失格1回の成績を残した。 ピエトリのイタリアでの最後のレースは1911年9月にパルマで行われた15kmのレースで、ここでも勝利している。引退レースは1911年10月にイェーテボリで行われたレースであった。彼は3年間プロとして活躍する間に、20万リラという当時としては破格の賞金を稼ぎあげた。 彼は、これを元手に兄弟でホテルの経営に乗り出した。しかし、経営者としては成功できず、ホテルはつぶれてしまった。 その後ピエトリはサンレーモに引越し、自動車ワークショップを経営した。1942年、心臓発作により死去。56歳没。 なお、オリンピックのマラソン競技におけるイタリア選手の優勝は、ロンドンオリンピックから80年後のソウルオリンピックでジェリンド・ボルディンが実現している。
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