上水道の敷設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:34 UTC 版)
市議会議員としての最大の功績は、上水道の敷設である。平成期には網走の水は日本で2番目に良質といわれ、「あばしりの天然水」として市販されていたほどだが、それは上水道敷設後の話である。湧水や井戸に頼っていた当時、網走の水の質は非常に悪かった。どこの水もアンモニアの臭いが強く、主婦たちは洗濯にも炊事にも難儀していた。使い物になる井戸はわずかであり、そこに毎日水汲みの行列ができていた。この労力の浪費を解決すべく、中川は上水道敷設に乗り出した。 網走市内で上水道に利用できる水源には、湧水のほかに網走湖が考えられたが、中川は将来性や水質、水量を考慮してそれらに見切りをつけ、網走から分村した東藻琴村(後の大空町)の藻琴山にある最高品質の湧水に目をつけた。しかし、網走までの約30キロメートルの距離が障害となった。当時の網走の年間の一般会計予算は1億6千万円だが、試算された費用はそれをはるかに上回る約3億円に昇っていた。 中川は鉄工会社である日本鋼管(後のJFEエンジニアリング)との交渉のため、市議会の助役と議員1人とともに東京へ向かった。中川が飛行機に乗ったのはこれが初めてであり、離陸に驚く様子を周囲は笑っていたという。 東京で日本鋼管に毎日通った末、ようやく社長と会うことができた。しかし、交渉はやはり費用の問題で難航。中川は5年払いを申し出たが、それには2億円の担保が必要であり、その担保すら網走にはなかった。そこで中川は、自分の牧場の持ち馬150頭に加えて、同席していた議員の私有地を担保に入れると言い出した。私財を担保にすると聞いて驚く日本鋼管側に対し、中川はさらに「網走の子どもたちの命が、将来がかかっているんだ。こっちも命がけだっ!」と言い放った。 この中川の必死の熱意に日本鋼管側が感動し、交渉が成立。1952年(昭和27年)から着工され、1954年(昭和29年)に給水開始。こうして網走市の上水道が実現した。平成期においても網走市の水は、大空町東藻琴の藻琴山の麓にある水源地から供給されている。 この功績により中川は、私財を担保にして網走の水道を作った人物として後々まで語り草になった。もっとも後年の中川本人の弁によれば、実際には牧場の馬は私物ではなく預かり物、土地もほとんどはすでに担保に入っていたものであり、それらを担保にすると言ったのは、どうせ交渉が駄目ならとの思いで吹いたホラだったという。
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