一等車・一二等車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/07 03:10 UTC 版)
「北海道炭礦鉄道の客車」の記事における「一等車・一二等車」の解説
一等車は1グループ2両、一二等車はいに3 - 9の7両が存在し、いに3, 4、いに5, 6、いに7、いに8, 9の4グループに分かれる。 い1, 2 5670形形式図 小樽市総合博物館所蔵の「い1」 1892年(明治25年)および1893年(明治26年)手宮工場製である。このうち「い1」は、1908年(明治41年)8月7日から15日まで、韓国皇太子の北海道行啓の際、御乗用とされた経歴がある。また、1910年(明治43年)10月19日付けで、室蘭の日本製鋼所に貸し付けられ、工場完成式典の来賓輸送用として使用された。 1911年の称号規程制定では、5130形(フコイ5130, 5131)となったが、その後二等車5670形(フコロ5670, 5671)に改造された。この時点での諸元は、全長12395mm、屋根高3346mm、車体幅2591mm、定員29人(5670)、30人(5671)、自重8.00tである。座席は基本的にロングシートであるが、車内を3つに分ける形でカギ形となっている。車内前位にはトイレが設置されており、デッキには手ブレーキのハンドルがある。 フコロ5670は1928年(昭和3年)、定山渓鉄道に譲渡され、同社のコロ1として貴賓用に使用された。太平洋戦争中からは豊羽鉱山専用鉄道で通勤輸送に使用されたが、1962年(昭和37年)に廃止となった。翌年、日本国有鉄道(国鉄)に寄贈されて苗穂工場で「い1」に復元の上、北海道鉄道記念館(現在の小樽市総合博物館本館)で保存展示されている。同年、準鉄道記念物に指定され、2010年(平成22年)には鉄道記念物に昇格されている。 いに3, 4 1891年(明治24年)、手宮工場製である。1911年の称号規程制定では、5140形(フコイロ5140, 5141)となったが、1912年(大正元年)12月に全室二等車5528形(フコロ5528, 5529)に改造された。この時点で定員は37人(冬季34人)、自重は7.80tであった。1913年(大正2年)10月1日付けで、5672形(フコロ5672, 5673)に改番された。1924年(大正13年)1月には、5673が樺太庁鉄道に移り、後の称号改正で200形(フコロ200)、1934年(昭和9年)には三等車に格下げされて240形(フコハ240)となった。 いに5, 6 手宮工場製で1911年の称号規程制定では、5420形(フコイロ5420, 5421)となった。 1920年(大正9年)、5421は島原鉄道に売却され、同社のホロ24 → ホロハ24 → トク24となって、1956年に廃車となった。 いに7 手宮工場製で1911年の称号規程制定では、5430形(フコイロ5430)となった。 いに8, 9 手宮工場製で1911年の称号規程制定では、5440形(フコイロ5440, 5441)となったが、1916年(大正5年)に二三等車の5760形(フコロハ5760, 5762)に改造された。
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