ロシア/ソビエト連邦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 06:45 UTC 版)
スメルシや内務人民委員部(NKVD)といったソビエト連邦の諜報機関では、二丁拳銃による戦闘方法の教育が行われた。これは7連発のナガン・リボルバーを用いることを想定したものであった。ロシア語では、「マケドニア式射撃」(ロシア語: Стрельба по-македонски)と表現される。この呼び名の語源には諸説あり、アレクサンドロス大王の護衛兵が両手に剣を持って戦ったことに由来するという説、19世紀後半にオスマン帝国からの独立を求めて戦ったマケドニア人およびスラブ人がこの射撃法を行ったことに由来するという説などが知られる。また、ウラジミール・オシポビッチ・ボゴモロフ(ロシア語版)の小説『В августе 44-го』(44年の8月)において造語されたとも言われる。作中、スメルシの諜報員である主人公と、悪役であるアプヴェーアの工作員の双方がこの射撃法を行う。ボゴモロフは自身が造語したという説を否定し、1934年に起こったアレクサンダル1世とルイ・バルトゥー暗殺事件(マケドニア語版)の際、事件を報じる新聞記事で使われた表現に基づくと説明した。ただし、暗殺犯ヴラド・チェルノセムスキー(英語版)は、確かに2丁の拳銃を所持していたものの、実際に銃撃に用いたのは1丁のみだった。 スメルシの「マケドニア式射撃」は、任務の性質上小銃や機関銃を携帯できない諜報員らによって使われた。拳銃を持った両方の手を近づけ、それぞれの親指を重ねるようにすることで、二丁拳銃で損なわれることの多い射撃精度を確保するものとされ、射撃は片方ずつ、あるいは両方同時に行われた。この技術は遮蔽物から遮蔽物へ移る時など、緊急時にのみ使われた。その後、小型の短機関銃の普及につれて、実用性は低下していった。 国際実用射撃連盟(英語版)(IPSC)会長も務めたロシアの射撃競技選手のヴィタリー・クリュチン(英語版)は、二丁拳銃で複数の鉄板を撃ち、音楽を奏でるパフォーマンスを何度か披露した。クリュチンはこれを「直感的な射撃」と称し、第一次世界大戦に特別偵察隊の一員として従軍した祖父が語った体験を元に、研究を重ねて編み出した技能であると説明した。当時、クリュチンの祖父らは6丁ほどのリボルバーを携帯し、塹壕に入ると2丁の拳銃を用いた「直感的な射撃」で戦い、弾が切れると銃をそのまま投げ捨て、次の2丁を取り出して戦闘を継続したのだという。
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