ロシア・ツァーリ国とスウェーデン王国の参戦
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「フメリニツキーの乱」の記事における「ロシア・ツァーリ国とスウェーデン王国の参戦」の解説
詳細は「ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)」および「大洪水時代」を参照 1654年の春、コサックのウクライナを保護国にしロシア・ツァーリ国がウクライナ・ポーランド戦争に介入し、ロシア・ポーランド戦争が始まった。4万人のロシア・ツァーリ国軍は、任命ヘーチマン、イヴァン・ゾロタレンコ率いる1万8千人のコサック軍と連携して、ロシア・ツァーリ国とポーランド・リトアニア共和国の国境にあったリトアニアのベラルーシ地方に攻め入り、ポロツク、ヴィテブスク、スモレンスクを占領した。また、1654年7月までにコサック軍は自力で南ベラルーシを征服し、コサック国家の連隊行政制を当地に設置した。ロシア側はベラルーシ地方への進攻と同時にポーランドのヴォルィーニ地方への出兵を準備していたが、フメリニツキーが南方ウクライナを荒らしたポーランド軍と戦闘中だったので、その出兵は停止された。そんな中、コサックとロシア・ツァーリ国の両軍の動きに対してクリミア・ハン国はコサックとの同盟を廃棄し、1654年6月にポーランド側と「永遠同盟」を結んだ。10月に両国の6万人のポーランド・クリミア同盟軍は、ブラーツラウ地方へ侵入し、当地方を占領した。 1655年1月中旬、ヴァシーリイ・シェレメーチェフ率いるロシア・ツァーリ国の2万人の援軍にフメリニツキーのもとへ遅れて到着し、1月下旬に6万人のコサック軍とともにオフマーチウ村の当たりでポーランド・クリミア同盟軍と対陣した。1月29日から31日にかけて決戦が行われ、両側は戦闘や厳寒によって3万人の死者を出したが、勝負はつかなかった。しかし、ポーランド・クリミア同盟軍の進攻は阻止され、両側の間に同年の秋まで大規模な戦闘はなかった。 1655年の夏、ロシア・ツァーリ国がポーランド・リトアニア共和国に攻め入ったことをきっかけに、かねてよりバルト海に面するプロイセンとリヴォニアをめぐってポーランド・リトアニア共和国と対立していたスウェーデン王国は、対立相手に宣戦した。スウェーデン王国王カール10世は、ポーランドの敵であったブランデンブルクのフリードリヒ・ヴィルヘルム、トランシルヴァニアのラーコーツィ・ジェルジ2世、ならびにウクライナのフメリニツキーと共同作戦の約束を交わし、同年7月にポーランドへ乱入した。ポーランド・スウェーデン戦争が始まってから半年で、ポズナンとクラクフをはじめとする大きな都市はスウェーデン軍に占領され、多くのポーランド軍人が降伏した。 1654年 1655年 1656年 1657年 スウェーデン側と連携を取りながら、フメリニツキーのコサック軍と彼に従属していたロシア援軍はガリツィア地方に進攻し、9月下旬にホロドーク町の周辺でポーランド軍を蹴散らして、9月29日にリヴィウ市を包囲した。しかしフメリニツキーは、クリミア・タタール軍が南ウクライナに侵入したの注進を受けると、リヴィウ市民から代償金をもらって包囲を解除し、南方へ向かった。そこでコサック軍が諸戦においてタタール勢を破ったため、フメリニツキーとクリミアのイスリャム3世は互いに誓願を立ててコサック・タタール同盟を復活させた。
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