レオン王国の建国とアブド・アッラフマーン3世の治世とは? わかりやすく解説

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レオン王国の建国とアブド・アッラフマーン3世の治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 17:59 UTC 版)

レコンキスタ」の記事における「レオン王国の建国とアブド・アッラフマーン3世の治世」の解説

たび重なるキリスト教勢力侵攻もあり、9世紀半ばから、後ウマイヤ朝支配体制揺らぎ始めた各地総督貴族独立画策しキリスト教徒反乱相まって鎮圧精力傾けなければならなかった。最も大規模な反乱トレド起こったもので、鎮圧するのに20年以上もかかったアストゥリアス王国は、この混乱に付け込んで徐々に版図広げていき、10世紀初頭までにドゥエロ川以北支配下おさめた914年ガルシア1世の代にレオン遷都し、レオン王国(レオン・アストゥリアス王国)へ改名した912年アブド・アッラフマーン3世即位すると、後ウマイヤ朝統治能力回復し始めたアブド・アッラフマーン3世は、反抗的勢力キリスト教勢力抑えて国内安定図り同時に内政にも力を注いだ彼の統治下でアル・アンダルス経済飛躍的に発展した後ウマイヤ朝最盛期はこの時期とされている。 この頃北アフリカファーティマ朝興り、その指導者カリフ自称していた。これに対抗するように、アブド・アッラフマーン3世それまでアミールから、「コルドバのカリフ」を称するようになったアブド・アッラフマーン3世は、ジブラルタル海峡越えてモロッコへ兵を派遣しファーティマ朝との戦い開始した932年アブド・アッラフマーン3世は、キリスト教勢力打倒するため、自ら軍を率いて北上した。後ウマイヤ軍は北部の諸都市攻撃し937年には主要都市であるサラゴサ攻略したレオンナバーラカスティーリャ中心とするキリスト教勢力、およびムスリムの反乱勢力は、この非常事態団結した939年連合軍シマンカスの戦いで後ウマイヤ軍を破ったアブド・アッラフマーン3世コルドバまで敗退した以降アブド・アッラフマーン3世関心は主に北アフリカ向けられるようになった後ウマイヤ朝は、一時モロッコ過半制圧するが、次第ファーティマ朝勢力盛り返し963年にはセウタ保持するのみとなった遠征失敗した後ウマイヤ朝は、再びイベリア半島視線戻した

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