レオン王国の建国とアブド・アッラフマーン3世の治世
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「レコンキスタ」の記事における「レオン王国の建国とアブド・アッラフマーン3世の治世」の解説
たび重なるキリスト教勢力の侵攻もあり、9世紀半ばから、後ウマイヤ朝の支配体制は揺らぎ始めた。各地の総督や貴族が独立を画策し、キリスト教徒の反乱と相まって、鎮圧に精力を傾けなければならなかった。最も大規模な反乱はトレドで起こったもので、鎮圧するのに20年以上もかかった。 アストゥリアス王国は、この混乱に付け込んで徐々に版図を広げていき、10世紀初頭までにドゥエロ川以北を支配下におさめた。914年、ガルシア1世の代にレオンへ遷都し、レオン王国(レオン・アストゥリアス王国)へ改名した。 912年、アブド・アッラフマーン3世が即位すると、後ウマイヤ朝の統治能力は回復し始めた。アブド・アッラフマーン3世は、反抗的勢力やキリスト教勢力を抑えて国内の安定を図り、同時に内政にも力を注いだ。彼の統治下でアル・アンダルスの経済は飛躍的に発展した。後ウマイヤ朝の最盛期はこの時期とされている。 この頃、北アフリカでファーティマ朝が興り、その指導者はカリフを自称していた。これに対抗するように、アブド・アッラフマーン3世はそれまでのアミールから、「コルドバのカリフ」を称するようになった。アブド・アッラフマーン3世は、ジブラルタル海峡を越えてモロッコへ兵を派遣し、ファーティマ朝との戦いを開始した。932年、アブド・アッラフマーン3世は、キリスト教勢力を打倒するため、自ら軍を率いて北上した。後ウマイヤ軍は北部の諸都市を攻撃し、937年には主要都市であるサラゴサを攻略した。レオン、ナバーラ、カスティーリャを中心とするキリスト教勢力、およびムスリムの反乱勢力は、この非常事態に団結した。939年、連合軍はシマンカスの戦いで後ウマイヤ軍を破った。アブド・アッラフマーン3世はコルドバまで敗退した。 以降、アブド・アッラフマーン3世の関心は主に北アフリカに向けられるようになった。後ウマイヤ朝は、一時はモロッコの過半を制圧するが、次第にファーティマ朝が勢力を盛り返し、963年にはセウタを保持するのみとなった。遠征に失敗した後ウマイヤ朝は、再びイベリア半島に視線を戻した。
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