ルールの整備と発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:55 UTC 版)
11・12世紀のころには、正確な競技方法は不明ながら、さまざまなルールの異なる象棋が指されていたらしく、李清照の『打馬図経序』(1134)には「大小象戯」という語が見える。また、晁補之「広象戯図序」(『雞肋集』所収)では、当時指されていた象棋が縦横11路で、駒は34枚だったと記している(晁補之自身は、囲碁と同じ19路で、駒が98枚の「広象戯」を考案している)。 13世紀の『事林広記』 には象棋の棋譜が残されているが、そのルールは現代のものと同じである。ただし駒の色は赤と黒でなくて白と黒になっており、駒の名称はどちらも「将・士・象・車・馬・砲・卒」で区別がない。 南宋末の宮廷には「棋待詔」という、ボードゲームの専門家が雇われており、10人がシャンチーの専門家(うちひとりは女流)であった。 明代に入ると、駒のデザインも現在と同じようになった。また、シャンチーに関する書物や棋譜も増加した。『橘中秘』(1632刊)には馬落ちの棋譜が載っており、駒落ちが普通に行われていたことがわかる。 辛亥革命以降、上海の時事新報(日本の時事新報とは無関係)をはじめとして、多くの新聞にシャンチー専門の欄が設けられた。中華人民共和国では、1956年に公式ルールブック『中国象棋規則』が発行された。その後、数次にわたって改訂されている。書名も1960年に『中国象棋競賽規則』、1999年に『象棋競賽規則』と変更された。現代のルールは、持ち時間制度や先手・後手の決め方など、多くをチェスに倣っている。 文化大革命中は、シャンチーも打破すべき旧文化のひとつとされ、全国大会も1966年を最後に開かれなくなっていたが、1974年には復活した。 公式ルールは、赤を先手としている。このように定められたのはきわめて新しく、1981年のようである。
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